怒りの感情については、アンガーマネジメントという言葉がコンプライアンスに組み込まれているように基礎的にはネガティヴな印象を持たれやすい。
確かに、その人間がどれだけ優秀か、というのはこの怒りをどれだけコントロールできる自制心があるか、ということとセットだと思われる。
例えば路上やその他の側面で、知人、ないしそうでない人間と接触したとき、怒りの感情はあらゆることを契機に込み上げる。
その根源は、動物として「外的脅威」から自信を保存するため、の機能のため原則はシンプルである。
おおよそ、人間の実存が複雑怪奇を究めるのはこの数千年で社会があまりにも高度に抽象化されてしまったからであり、いい意味でも悪い意味でも情報化が高度に進んだ社会だからだ、と思われる。
高度な社会特有の精神構造
原始的には、共同体はきわめてシンプルであったはずだ。つまり言語や語彙数自体が非常に限定的であり、情報を伝達する手段も口頭か印刷技術の出現以前は非常にフィジカルにコストの高い文字手段、それらを使うことでしか情報は手元に届けることができなかった。
そして、資源の抽象化もされていなかった。資源が抽象化されないということはつまり重工業とかインフラとかの発達以前の世界で、それらはより自然と密接に接していた。自然と接するということは人間が自然の中の一部である、ということで自然の脅威とも直接的な因果関係が存在した。
つまり、彼らの命題は「生きる」「死ぬ」ということがもっとより鮮明な解像度をもって目の前に存在していた、ということでもある。「生きる」「死ぬ」という最も動物として組み込まれた中でも本質的な性向は、より生きることの解像度を上げ、リアルにする。であるからして、捕食主体が現れれば「逃げるか」「戦うか」に二択を迫られた。
この二択は、言い換えればバイナリということであり非常に解釈が容易であり、実感がしやすい。昆虫や動物でもこの行動原理を軸に動いている。
では、高度な社会ではこれがどのようになったか、というと抽象化された。
IT革命はDARPAが発端だし暗号化複合化、についても主に戦前はナチスがイニシアティヴを持っていた(と記憶している・・・エニグマ?)が、これの前はテレビ・ラジオという情報伝達手段があった。
そして、このメディアを通して伝えられるニュースを通じて、人々は自分に直接関係のない世界や事象により多く触れることとなる。
このこと、並びに「抽象化の度合いが」高くなったこと、と精神疾患の度合いが高くなる、というのは、都市化そのものが精神疾患をより誘発しやすくした、というポーランドでの見解にもみられる。(Studies in Polish Poltical System - ZAKLAD NARODOWY IM. OSSOLINSKICH)
知的なヒエラルキーの現実とその立体性
「メディア」というとおそらく揶揄的な示唆をかんじる人も一部いると思うが、大きくされる誤解(ないしバイアス)として、メディアはあくまでも媒体であり中立だ、ということである。
「メディアは虚偽である」という定言はどちらかというと偽で、メディアはあくまで媒体なのでそのメディアを供給する主体がどの程度真実を担保しているのか、全く担保していないのか・・・また担保しているとするとどの具合(ratio)なのか・・・
という箇所が論点になる、が、おそらく堅実な読者の諸君ならもうお分かりだと思うが、
世の中のかなり多くの人間には厳密な意味での事理弁式能力がない
このかなり多くをどう捉えるか、そもそもこれは主観だろう、と指摘されれば主観かもしれないが、主観のほうでもより根拠が明示できる主観である。
根拠としては、かつての日本政府も所得で政治に参加できる権利をフィルタリングしており、より所得が高ければそれだけまあ意思決定の信憑性において問題ないだろう、という判断がかつてはあった、ということだ。
ただこれにはもちろん問題点があり、所得が高い一定の特級階級、そしてそれは財産の継承という形で格差が開くことを意味し、貧しい家に生まれているがより教育についてポテンシャルがある層についての配慮がなされていない。つまり自由競争が担保されていない。
こういった経緯から、また、敗戦後に米国のイデオロギーをある程度半強制的にクローンせざるを得なかった日本においては、より欧米的な民主主義、というのが正、となったし、韓国も同じである。
無論罪刑法定主義とか due processとか、個人の人権を尊重するという世界はより進んでいる(進歩、とか前進、という言葉は60年代に汚れてしまったのでこう表現するが)という見方には一定の共感はできる。
ただ、もちろんこれは必ずしも最適解だ、と言い切ることは難しい。
まず意思決定が最適になされない、ないし意思決定のスピードが落ちる点。
プロパガンダが主に結社ないし私企業経由で流れる構造が強固な点。例えば、「この芸能人は素敵なんだよ」とか(これ自体を揶揄するつもりはないが)「この化粧品は素晴らしいんだよ」といったいわゆるコマーシャルの延長で政治活動なども行われているし、また、より「資本が大きい」総体がより世論について強いリーダーシップを持っている点である。
これは口を何度すっぱくしても足りないが、機械学習とかC.Aというのはそういうことである。元C.A(Cambridge Analytica)のチーフエンジニア、Christopher Wyllieの Mindfuckによると、中南米、ミャンマーなど第三国のビッグデータを持っているFacebookは、その個人情報をその国の特定の与党などの依頼をうけて把握し、「セグメンテーション」する。
ミャンマーのロヒンギャ虐殺も、フェイスブックでミャンマー人に「いかにロヒンギャが極悪非道なことをしているか」、というのをインパクトの強い短い動画やポスターなどで強調し見せ、そして彼らに特定の感情を醸成させる。
この際、知的能力の高い、ある程度リテラシーのある人間であればまずそこに流れてきた情報が「本当に正しいのか」いろいろな一次ソースを当たる(検証)。まず、「揶揄されている」当事者の声とか一次ソースを丹念に調べる、また、自分の立ち位置と異なる視点の学者やソースなどにもアクセスするのは常識だ。
ただ、多くの人間はそこまでの学習コストは使えないし、検証とは対照的に、自分の欲しい結論や偏見を肯定してくれるような情報だけを選択して集めていく「=思い込む」。思い込むし、怒りの感情をより雪だるま状にループして拡大させていくし、より自分のバイアスを強化する情報を摂取するようになる。それをさらに、機械学習による最適化やFBが強烈に後押しする。
この同じ手法を、Brexitやトランプ当選などでも再利用した、というのはChristopher Wyllie(関与した張本人の主張である)。もともとはオバマ政権で使用されていた手法だったが、これが後々共和党でも継承された。(ヒラリークリントンのネガキャン)
知的能力が高い人間がなにかを「思い込む」ことはなく、おおよそ一歩引いて考えたり多角的なソースを当たったりできるので、問題ないが、
多くの人間は感情的で、よりバイアスを強化させ、歯止めが効かない。
フェイスブックはそういう人間を大量に洗脳(という言葉がよくなければ教育)し、特定の政治的行動に向かわせた、ということである。
「知的なヒエラルキーの下部の意思決定は合理的ではない。なので、俺たち一部のエリートが政治全部やるから!」
これが中国共産党はじめとする全体主義社会の実像であり、そもそもあいつらがどうして今のような挙動をするか、というのはあいつらをしっかり勉強し尽くさないとわからないが、ほぼ99%の中国脅威論者は日本語で自分に都合のいいソースしか食わないんで、永遠に真理には辿り着けない。
まあ中国共産党は「強権政治」とか「管理型」社会であり、明らかに自由はないので個人的には住みたくはないが・・・
だが、たしかに筋はとおっていて合理的ではある。意思決定に阻害要因がない。
これが、日本やアメリカの場合はそうはいかない。
結局どの国だろうが世論っていうのはなんとかしたいし、世論を敵に回したら政府として淘汰されるしかないので、
そこで世論を操作する必要がある。
操作するために、すでに特定の政党にコミットしている人間を動かすのははっきりいってほぼほぼ無理ゲーなので、
「浮動票を狙い撃ちに行く」
このさいに、Facebookが一役買った、というのである。
そして、今でも現役でFacebookをお使いになっている高齢者の方々は、まるでオレオレ詐欺で誘導されるように顔の見えない第三者のプロパガンダに踊らされている、というわけである。
もちろん誰も彼らを止めることはできない。そうして彼らはアルカイダのように過激化し、孤立していく、しかない。
知的なヒエラルキーというのは、ポストIT革命の世界ではより多様な情報を多様な角度から吟味し、「断定」に対しなるべく慎重になる人間が上位で生き残る。(ないし「断定」しがちな知的弱者を上手に扇動し、彼らから搾取する人間が生き残る)
逆に、ヒエラルキーでの下の人間はより刺激的な情報の中毒者となり、より単子眼的になっていき、より非生産的な活動にのめり込む。
アメリカの保守や右翼をよりたきつけたのがロシア(=Lukoil)だったことを思えば、いわゆる今よくみられるネット愛国右翼というのは、より自国のIQを低くして破滅に追い込んでいる張本人なわけで、より社会にとっては「右」からみても「害」である。(事実トランプ自体のアメリカの悲惨な混乱は記憶に新しい。)
コントロールできない怒りは、かれにとって有害である
怒り、の感情は動物的にはただしい。これは自己保存のためにつくられた機能であるからして、より「自然」にちかい。
ただ、高度に抽象化され情報の伝達速度が速くなりすぎた現代においては、「怒り」とはその人間をより不利にするし、より盲目にする。
「怒り」を消費する社会的コンテンツは氾濫し、連日炎上し、いわゆる「クソリプ」や「粘着」の類が跋扈しているが、その多くの人間が貴重な時間資源を浪費しており、こういう「底辺層」をいかに「つかい、搾取するか」が「エリート層・資本を持った層」の行動原理である、ということは本記事でなんどか仄かした。
怒りはコントロールされているときこそ、より効果的である。これは暴力についても等価で、「垂れ流し・慢性的」な怒りや暴力はただただその主体の精神的弱さ・臆病さ・被害妄想からくるものであり、自信がないのである。
自分に自信がなければ、より強い言葉を使うしかない。
自分に自信がなければ、より否定するしかない。
「国語」で人は何者でもなれる。
「オリックスファンは連続殺人鬼の子孫だから、地獄に行く。俺は天皇の子孫である!」
みたいな戯言も、「国語」としてはインパクトがあるが、何ひとつ事実と一対一対応にはなっていない。が、こういう「国語」はより跋扈しやすく、インパクトだけは強い。事実とは、もちろん関係ない。
知的な思考能力というのは数学とセットになっているし、ここで「カント」先生が登場するわけだが二律背反である。
「オリックスを支持する人間の根拠(1)(2)(3)」
「オリックスを支持しない人間の根拠(1)(2)(3)」
と並べて、それらを比較検討し、どちらも真実の世界が成立するが客観的科学的根拠から自分はどの程度どちらの意見に傾倒する、
といった形でより相対的、総体的にものを考えることができるのが「知的強者」。
「オリックスファンは連続殺人鬼の子孫だから、地獄に行く。俺は天皇の子孫である!」
と「国語」で「断定して」「言い切る」
のが知的弱者。
なので彼らは永遠に自身の設定した(思い込んだ)見えない仮想敵と戦い続け、家族や友人を失っていくのである。。。。。
まとめ
怒りの感情は原始的にはより直接的であり自然で有意義なものであったが、社会が高度に抽象化されたこと、また、情報インフラの劇的な発達により、より知的なヒエラルキーとその搾取・被搾取の構造にといて独特のフォーマットが出来上がった。怒りをコントロールできる人間はよりベターな意思決定をできるが、慢性的に怒りに支配される人間がより人生において搾取され、詰んでいく、というところまでが現在の社会傾向であると思われる。
いじょう!
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