暇つぶしに小説でも・・・・と思い松本清張の「憎悪の依頼」を読んでいる。
個人的なバイアスとしていわゆるライトノベル的なノリが苦手で(悪いとは言っていない)、どちらかというと小説には日本語という言語芸術のレベルの高さとか、実存の描写の「画力」を求めるほうである。
つまり、例え坂口安吾みたいな退廃的テーマであっても、MacのIMEみたいな日本語を劣化させるような語彙の貧しさ、からは自由に、せめて紙の媒体の世界ではあってほしいと思うのだ(この点、中国人は羨ましい。IMEで日本語を間引きされる、みたいな屈辱や怠慢はないだろうから)
まあしょうもない愚痴はここまでにして。
松本清張にも「ライト」という偏見があった、これはドラマ化されていたので、ドラマのイメージがつくと「文学」とか「言語芸術」というよりは、少なくとも言語のベクトルからは言語が間引きされてしまった、という偏見をもってしまいがちだからだが、
それをいうと美しい星もそうだよな・・・・ということでこれは私の間違いであった。
松本清張は非常に濃い、良質な日本語をつかう良質な画力のある作家で、
読んでいて苦にならなかった。
ここは、新しい発見(食わず嫌いしなくて、よかった)
また、「女囚」という作品が非常に印象的だった。
女囚(筒井ハチ)は、(なぜか)クリスチャンという設定の新しく赴任した刑務所長が、ある30代半ばの女囚に出会い、彼女に惹かれていく。
顔の幼さ、とか体つきから処女・・・とか性的でいやらしい妄想をトレースしつつも、そこから彼女の犯行を犯した動機や経緯についての描写へとうつり、
そこから彼女は尊属殺人を犯しつつも暴力をふるう粗暴な父親から母親が殺されるのを守った、正当防衛なんだ
という結論にいたる。事実、世論も彼女に同情していて、むしろ15年の刑期は長いのでは、となる。
そして彼女によると、彼女の妹たちも面会のたびに着る服が高くなり、それはこれまでの貧しい生活(働かない父親が妻や子供の金を搾り取っていた極貧生活)とくらべればよいんだ、妹たちを自分は幸せにしたんだ、という話になる。
ここまでの時点で読者はハチに同調する。だが、
この後さらにハチに興味をもった刑務所長はその「救われた妹たちに」話をきくと、実は全く異なる事実がでてくる・・・・
というくだりである(詳細は、小説をかってちょ〜)
ここで学べることは、
フレーミングが非常に巧妙にできていて、
ある地点までは観点Aが真実だと、それが世界全体だと読者は信じていたのに、
あとで観点Bが付け加えられたことでそれが180度覆る、
つまり真実は一面的じゃないんだよ、という非常にありがたい教えだが、
こういうフレーミング、しかもエロスをきちんとトラッキングしているところも示唆にとむな、と思った。
自分の漫画の参考にできれば、と思う
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