選択的夫婦別姓について、議論がなされている。
つまり、妻が結婚した後に夫の姓と合わせるべきか?ということだ。
これについて、興味があったので・・・・個人的な見解を述べたいと思う。
結論から言うと、反対はナンセンス、「選択的」夫婦別姓はあり、だと思う。
理由としては、
(1) そもそも日本が夫婦同姓にしたのは1898年(明治31年)から。
(2) 「選択」の自由であり、その自由を縛る権利は誰にもない。
(3) 女性に対し、結婚したら「男性に合わせろ」という考えそのものが古い(そして古くかつ負債的)観念であり、女性への我慢に甘えた男性の幼稚なかんがえである。
(4) 反対派は実際に夫婦同姓縛りによる不利益を強いられる個々人のユースケースへの想像がない。
(1) 法務省のWebサイト(http://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html)によると、明治9年あたりとか普通に夫婦別姓であり、そもそも夫婦同姓の歴史的普遍性を主張するのはかなり根拠として「厳しい」。夫婦別姓と家庭崩壊を結びつけるような揶揄が散見されるが、じゃあ明治9年前は家庭崩壊9割のディストピアだったのか?という話になる。
(2) 個々人、個々の夫婦がどういう自己決定するかは個々人の自由であり、それを外部が縛る権利はない。この「自由」という観念は大事であるし、結婚にさいしてどういう形で式を上げるか、姓をどうするか、は個々人の自己決定に帰属する問題であり、これに対して何かしら強い危機意識を持つと言うのは「自分」と「他人」の区別がついていない、という所感がある。法制度はアスぺ傾向のある男性のおもちゃではなく、国民一人一人をより幸福にするための道具である。当然、姓を強制的に変えられることで不利益を被る女性に平手打ちをする権利は誰にもないし、ヒジャブを強制する権利もない。ここは民主主義国家であり、男女(そしてその自己決定権も)は平等であるべきだ。
(3) 昭和の時代にいたるまで男は女の無条件の服従や忍耐に甘んじてきたのであり、そういうのは淘汰される時代、すなわちもう時代はとうの昔に変わっている。「家事は女がやる」「子育ても女がやる」「男は自分の世界にこもっていればよい」というような枠組みの時代はとっくに終わっている。「女が男に合わせる」というのは女が男よりも下位にある世界観であり、これは21世紀通用しない。それぞれが自立し、それぞれを尊重しあい、その結果夫婦別姓はひとつの選択肢として尊重されるべきだ。
(4) よくいわれるのは、仕事ですでに旧姓をつかっているキャリアウーマンやフリーランサーなどが、名前を上書きされることで仕事上不利益を被ると言うことだ。これは、当事者でなければそのつらさは理解できない。
また、結婚して、旦那が虐待をする、また家庭を顧みない、家庭を大事にしない・・・・といった場合に、「女が首を垂れて」我慢する、というのは、そういうのはおそらく大昔はそういうのがまかり通っていたけど、いまは無理だし、結婚したあとの「リスク」を女性がまるっと背負うのは違うだろ、と思う。
なので、選択的夫婦別姓への拒絶反応みたいなのは、個人的にはただのヒステリーだと感じるし、「家庭の崩壊」などという揶揄も、上記理由からただの「調査不足」「少ない偏った情報ですぐものを断定する悪いくせ」としかみえず、感心する態度とは言えない。
そもそも、世界というのはとても複雑であり、「少ない情報で多くを語ろうとする」悪い癖が抜けないというのは経済的にも不利益を被ること多く(感性や思い込みで経済的な諸般のことと向き合うので、金融資産も築いていなければ、他人のクレジットカードで買い物をしようとまでする)、陰謀論にも偏りやすく、正直推奨できない。
そんなことに固執するエネルギーを、もっと別のことに費やせば有益なのに・・・・と・・・・
まあそんなかんじで。
No comments:
Post a Comment