月島は2階から突き落とされた。春なのにひんやり冷える朝の時間帯、彼は恨みを買っていたのだ。
月島は俗にいう金持ちのプレイボーイで、毎日六本木で遊ぶような類の人間だった。
親からもらった遺産で50億。そのうちの半分以上は資産運用に回していた。
月島がなぜ突き落とされたか。幸い2階だったのと、打ちどころが頭でなかったので、奇跡的に足の骨折だけで済んだ。(まあそれでも災難だが)
これは、彼の持つ倫理観の欠如ゆえであったが、
性的探検においてこの倫理観の欠如や後ろめたさ、ほどに物理的快楽を指数関数的に倍増させるファクターはなく、
彼はまあそれまで楽しい思いをしていたのは事実だ。
彼を突き落としたのはいわゆるトランス・ジェンダー系の女の子で(元男の子)で名前をビアンといった。
ビアンはもともとボクシングをやるような精悍な青年であり、顔はいかつく骨格も逞しかった、がそれは家庭からのプレッシャーゆえであり、本人も「親に認められたい」という欲求から、親の望むような逞しい男としての自分を演出していた。
だが、男か女か、自分がどのようにありたいか、といった
自己決定に関する部分に嘘をつく・・・・というのは不可能なことであったのだ。
そして、ビアンはタイにいき性転換手術を行った。
新しい人生。
女としての人生。
もちろん出産とかはできないし、ハンディはあるけれど、それでもこれからの人生を自分らしく、華々しく生きられる。
女であるため、女であることを維持するため、
ビアンはあらゆる努力を惜しまずに継続した。
人は努力できる。
そして、それを継続できる。
ただし、このさいに重要なエンジン、動機性はそれが自分の求めている、ということである。
もちろんアドラー心理学の述べているみたいに「行動していて、それは自分が求めていたことなんだ」という因果関係を逆にする、まず行動という考え方が現在主流になりつつあるが、
その行動先行の人間に共通なのは自身の人生や自分自身に主導権がある。
これは当たり前のようにみなされるが大きな違いだ。
多くの人間が、自分自身の人生に主導権をもっていない、と感じている。
これは事実かそうでないかは置いておいても、たとえば家庭の中で「あるべき自分」を押し付けられる、このさいに押し付ける側に悪意はなく、むしろ当然の善意とか自分の子供にたいする思いとかから、それを要求するのだが、
それは、その子供本人が自分の人生に主導権をもっている状態とはいえない。
同様に、自分自身の人生に主導権を持たない、という仮象をもつようなケースは、
たとえば組織において求められる役割・責任などがある。
そもそも、個人は個人なので組織のビジョンにコミットする、などというのは
「嘘」か「エゴが存在しない」
かのどちらかであり、多くの場合前者、である。
つまり人がいきるために「嘘」をつき続ける必要があるとか、なにかを演じ続ける必要があり、これらで自分の首を真綿で締める、ということになる。
すなわち、ビアンと月島の関係性もそれに近かったと言える。
月島は相手をコントロールする術に長けていた。無論、法治国家でなければ暴力で強制終了させる・・・・ということ、たとえばある日クラブで王様のように振る舞っていたら、たまたま居あわせた暴力団関係者にしばかれる・・・・など・・・・も基本的にはありえない。
文明社会の人間は法を犯すこと、また、法で禁じられていても人間性としては自然なことを、「法的な制裁」ゆえに封殺することに慣れた。
これはいわば、動物的な人間性を殺したと言うことで、結局そのなかで他者をコントロールできる人間は「言葉を上手に使う」人間に変わった。
ビアンは月島の低い自尊心につけこんだ。
「でかいだろお前は?俺の今遊んでる女は全員お前よりも華奢で、小さくて可愛い。」
その言葉を、なんの後ろめたさも感じることなく吐き出した月島の歪んだ微笑と優越感に、ビアンは激しい憎悪を抱いた。
またその激しい憎悪が、屈辱が、エロスのエネルギーに利子付きで変換されたことも事実だった。
快楽に悶え苦しむビアンは、おそらくビデオにでも撮ってしまえばほぼ全員の男がホモビデオを見ているような気分になっただろうが、
いつでも動画でとられている姿よりも、現実の姿のほうが美しい。
その差分、その多様性、を月島はエンジョイした。
タバコを吸いながら、双方ともに覚めていた。
お互いに未来のない関係。
ただの好奇心。ただし、はじめにただの好奇心だった男女?関係は、おおく片方の熱意熱量、もう片方の無関心という非対称・非均衡を増していく。
ビアンはこれまで抱えていたすべての憎悪、変換できなかった残りの膨大な憎悪から、月島を突き落とした。
男女関係は難しい。
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