Thursday, April 22, 2021

いじめについて、思うこと

近年痛ましいニュースが流れてくる。それは学校でのいじめだ。
学校は密閉された社会であり、外部からの把握がしにくいことに加え、学校生活は子供のなかで閉じられた世界であり、子供の心の世界である。

腹立たしい・・・・と思う。

学校関係者や担当教員はただただ、自己正当化と保身の言い訳をしているだけで、結局は体面しか考えていない。ことがいじめの深刻化の大きな要因だと思われる。

おおよそ人の尊厳を剥奪されるようないじめ。

マスターベーションの強制。

この事象をどう捉えるかというとおそらくは(1)制度の改善でなんとかする、のかもしくは(2)自助努力で対処する しかない。

優しい子供ほど危機に晒されているだろう。

僕個人のことを思い出してみる。

高校時代は楽しかったが、一方で人格に障害?があるというかサイコパスみたいなやつが何人かいた。

白シャツに後ろから墨をつけられたこともあり、K島というやつだった。(隣の席だった)

それから、T永というのもいて、ほとんど人間というより壊れた機械で、

一度取っ組み合いになり、本人は僕の顔を小便器につけようとしてたんだけど、

僕柔道やってたんで、結局なにもできず、PHSで悪口雑言を並べるダサいやつだった。

まあ数十年前の話をしてもしょうがないけれど、僕自身も危険に晒された経験があるので、まして格闘技経験のない、おとなしい子なんて、

悪意のある生徒に絡まれたときに、(しかも適切な人間関係を構築していなければ)地獄に落とされるのは間違いない。

地獄に落とされるというのは、誰も気づかない状態(親ですら鈍感で何一つ感じないか現状を放置する)でただ毎日暴力や攻撃に怯える日々を過ごすのだ。

それをだ。

まだ小学生の女の子が・・・・・

事件が起こった後に加害者生徒を非難するのは容易い。そして、僕個人もやたらと目的刑法に偏ったアプローチには限界があると思っていて、

法は確かに客観中立であるべきものであり、そうでないとやばいが、ただだからといって理念アスぺが一般市民を自己満足や善意で蹂躙するための絵に描いた餅というか偽善のためのTENGAでも、ない。

だから法理論的に復讐はダメなんだよ、といっても人権侵害された側がした側に何かしらの制裁を下す、というのはごくごく人間らしい人間性であり、それを抑えられないことを「殺しても被害者は帰ってこない」と当事者でもない人間がかたるのはやはりなにか違和感がある。

また同時に、事後的な悲劇にフォーカスをしすぎることも本来社会全体の世論の動きとしてはよくないのであって、「今後これをどう再発しないか」「今同様の境遇にある子供たちをどう助けるか」がもっともプライオリティが高いであろう。もう起こってしまったことは、取り返せない。

さて、制度面としては「生徒の流動性を高めろ」がおそらくは一案であろう。これは、なるべく疎結合であることのできること、すなわち学校から学校へのスライド、も比較的低コストで行えること。また、「親・教師の再教育」。それは「異常系を正確に、迅速にみつけること」「異常系を放置しないこと」。

吉本隆明は自死する子供は親の自殺願望の代理死として死ぬんだ、といったことを述べたが、

僕個人はこれはあまりにもジェネラルすぎると思っていて、親の自死願望を子供が継承してそのまま自死する、というケースが一定の確率では潜在的にあるとしても、外的要因として事実ものすごいストレスに晒される、裸の写真をとらればら撒かれる、SNSでのけものにされる、社会的に殺される、教師が無能、といった「決定的な」要因を無視するのは不可能だと思うのである。

であるので、一つは風通しをよくすること。

もう一つは、これは日本が法治国家としてあまりにも成熟しすぎてしまった裏返しだとも思う。

つまり男同士殴るとか、まあ軽い決闘とか、取っ組み合いになるとか、そういう旧世代ではわりと当たり前だった物理的な喧嘩とか衝突が極力抽象化され路上から消え失せた。

僕らは、いわゆる路上で調子に乗っている不届きものを「しばく」ことができなくなった。なぜなら障害とか暴行になって前科がつけば、人生はほぼ終わるからだ。

だからどれだけ公的な場所でどんなクソなやつがどんな不条理なことをやっていようと、大方の日本人はみてみぬふり、警察を呼んで5分は犯罪者にバッファを与えてあげる、しかできない。

私人逮捕なんてのはよほど相手が腑抜けでもない限りは高等技術であって・・・・ジョージフロイドのケースのように意図的に悪意を持って負荷をかけ、結果として殺してしまうケースもある。

暴力をすべて、隅々まで排除してしまった。暴力団はいなくなった。

どうなったかというと、半グレが登場した。また、「勘違い野郎」を誰も止めることができなくなってしまった。

そういった中で、子供たちも大人の世界の写像というかある意味ミニチュアのようなものなのだから、この「小狡さ」みたいなものが暴力に組み込まれていく。

そうして、どんどん被害者の子供やその周りが、いじめを「制止」できなくなってしまった。

いじめる側が、いじめられる側に殴られるとか武器で攻撃されて、はじめて「健全な」フィードバックをえる、ということがなくなった。

すると、これは水が高いところから低いところに流れるのが自然なように、

暴力や悪意はエスカレートしていく。教師は気づかないか、「面倒だ=割りに合わない」と思う。

(これは教師から名誉を奪った世代の責任でもある)

なのでいじめの問題は根が深い。これらを解体し、人間をもっとシンプルに戻さない限りは、「ある日突然自殺をもって表面化する」といった、大人たちの怠慢と失態と自己保身のすばらしい結晶のようないじめはなくならないだろう。

2に、自助努力であるが、子供に武道をやらせる親は賢いと思う。

武道を習うと、「最悪の事態」は防げる(これは私個人が柔道をずっとやっていたのでわかる)

最悪の事態は主体Aから主体Bへの暴力が一方的になるということであり、これは防げる。

そして、いじめが深刻化・表面化してから子供に武道をやらせるっていうのは正直「遅い」くて、早ければ早いほどいい。

武道は教養だと思う。

まあそんなかんじで。




※もう一つ: さきほど教師を無能、などと揶揄はしたが、一方同情もしていて、教師が「体罰」というかたちの揶揄で子供に「物理的制裁」を与えられなくなったことは、もはや教師が子供にコントロールを与えられなくなったこととほぼ等しい。これは大人たちの責任で、それでさらに「いじめを止めろ」などと訴えられても「は?でも体罰だめなんでしょ?どうやっていじめてるほうを教育するの?」という話にしかならない。野蛮人は暴力ではじめて矯正できる。その暴力が使えない。亀甲縛りでどうやって仕事しろって話。それを作ったのはこれまでの保護者たちで、結局自分で自分、ないし他の親の首を絞めることになった、って話。ちょっと気に入らないことがあると職員室に怒鳴り込んだり教員をなじって教員を萎縮させ、うごけなくさせた親たちが元凶、といってもそんなに外れてはいないと、思う。

教師を弱体化させたのは、保護者たち(モンペ)だ。

その当然の結果として、もう教育は終わっているのだ。だからその副産物として、いじめは誰も止められないんだよ、という皮肉な話。

ただ、これはA面。無論、教師の体罰が恣意的であったり結果子供に障害を与えたり殺したりしたケースも無視できないのであって、これがB面。

さあ、どうする?













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