Monday, April 25, 2022

動画の倍速について

 個人的には二通りの感想がある。端的に言うと以下の通りである:

  1. 個人から「実態」が消失している

  2. 情報供給がインフレを起こした結果、情報(やその発信主体である自我)の価値が低減した

  3. 「時間」そのものが変化した(早くなった)

順番に述べていこう。

  1. 個人から「実態」が消失している

まず、個人から「実態」が消失しつつある。これは後続の箇条とも多少かぶるが、情報が物理(活版印刷)からデジタルへと移行したこと、またコンピューター端末が低価格かつ手軽、広く大衆の日常生活に組み込まれたことで、個人の情報への露出が増えた。

旧社会では、どちらかというと情報はもっと「実態」を持っていた。もう少し踏み込んで言えば、「言葉」は実態を持っていた。これは言葉についてもいえるし、絵や音についても同様のことがいえるだろうし、つまりは動画についてもいえるだろう。
全てはアクセスが容易な、クローンを前提とするデータとなった。つまり抽象度は増した。誰かが創作した文章やイラストは、「void」空疎な、それでいてSEOだけはがっちり抑えている個人や企業体によって簡単に「パクる」ことができるようになった。

この中で、また、戦後とくに物理的な危険を経験していない、飢えも経験しない、暴力なんか見たこともない、そういった個人が増幅していき、僕らは「死」ですらも他人ごとになっていった。

結局、ハイデガーがいうように「死」を通してしか「生」の輪郭を描くことはできない。また、人間の言語や音画像は、その実態はアナログにしか憑依しない。記号論の乱用が滑稽さをもっているのも、リバース・エンジニアリングして分解したところに実態なんか、ないからだ。

一人の人間を、殺してバラバラに解剖したとて、そこにはもう人間はいない。
また、いくら人間はタンパク質の塊で筋肉がどうのこうのと強がってみても、やはり美しき女の仕草に人は心を奪われるものである。

だから、記号というのはあくまでも手段でしかなく、記号がものごとの「本質」だというのは錯覚や誤解の類でしか無い。

ゆえに、外国語を習得するということは、その集団の「魂」をインストールすることだから、そういう意味では大変意義深いものである。

音楽も、音やスコアや波長は、手段であっても実態ではない。それを実態だと思いこむのは、唯物論者の末期のような状態でしか無い。

僕らは、「スマホ」への過剰な露出や、悪い意味でのなんとかピックス的な風潮や、文化歴史の軽視や、箇条な「コスパ」信仰によって、「実態」を失いつつある。

ちょっと老害っぽい視点かもしれないが、神が宿るのは必ずアナログである

情報供給がインフレを起こした結果、情報(やその発信主体である自我)の価値が低減した

紙幣貨幣とおなじく、過多な情報供給は、情報の信憑性について個々人のリテラシーを重度に要求するようになった。
我々は、情報へのアクセスへのコストが劇的に下がっただけでなく、日々情報への露出の量が増えたことで、逆に情報の価値が峻別できなくなった。

物理的な情報でも、昨今の本屋は虐待のレベルで質の劣化をたどっているが、本来であれば「凝縮された」「価値」を貪るところが「本屋」であり、書斎であり、そういうものを軽視してインテリアなどとよんでしまっている下品な風潮が問題の根源な気もしなくもない。

倍速をするのは、個々の情報の価値が減ったからである。

そして、これは「忍耐力」を失った若者だけの責任ではなく、よくないものも含めて量産している情報供給側の責任でもある。

外山さんの言葉を借りれば、「難解な本や文化のベータ消費」という体験を失った・・・という、ある意味では教育や文化の敗北でもあるが、これは日本だけの問題ではないと思われる

「時間」そのものが変化した(早くなった)

結局、ITの産業革命によって時間そのものが早くなってしまった。
昭和のような(それを肯定するかは別として)、いわゆる釣りバカ的なエコシステムは・・・・すなわちメンバーシップ型の環境はとうに終わりを迎えており、今はめまぐるしく変わり、早いコミットを求められる非常にストレスの高い時代である。
これは中国人なども肌身に感じており、そこから脱出するためには東南アジアとかに脱出するか、
「古い時間」に逃げ込む機会をつくる、例えばそれは

「能とか歌舞伎」

、それも現代風にアレンジされたものじゃなくてわりとハードコアなものを消費する、また浪曲をきく、座禅、ぼ〜っとする、

そういう、「暇さえあれば、他人との会話中でもスマホをいじる」ような、自分の時間を一ミリも失いたくないというある意味の「貧しさ」から脱出することである。

こういうことは、今のインフルエンサーとかの洗脳から脱出するということだから、

まあ、そういうことである。


もちろん、これらはあくまでも私のかなりバイアスのかかった偏見であるし、これを読まれる諸兄がこれを真に受ける必要はない。

私は元来かなり性格が悪く屈折した性格であるがゆえ、不快に思われた諸兄にはこの場をかりてお詫び申し上げたい。

マンガ、かいてます


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