Friday, April 1, 2022

未成年と性について

 非常にデリケートな話題ではあるが、弊社でもいわゆるR18のコミックやASMRを扱っている手前、この話題は避けて通れない。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6242b1e7e4b0e44de9b879b8

国際社会のプレッシャーを根拠に国内法はこうあるべきだ、という安易な発想は個人的には危険だと思っていて、欧米の価値で国内の文化や法を上書きすること即ち正義・・・といった風潮は遺憾ではある。

法は、そもそもそれを根拠付ける価値・・・すなわちその国家を構成する人間たちのある意味では「共同幻想」のある種の表象である。

つまり、「殺人は許されない」というような普遍性の高い法であればあまり気づくことはないが、「特定の(とくに為政者を否定・批判する)思想の表現を刑罰の対象とする」「ウクライナ国旗を想定させる色の服装を刑罰の対象とする」・・・・といった「法」も・・・つまり「悪法もまた法」であり、その法を裏付けるものには必ずその正当性の根拠となるべき「定言命法」、つまり「神」的な・・・「これ以上は分割できない、これ以上は疑うべからず」の絶対的な善悪の基準が存在する。

何が言いたいかと言うと、法というのは抽象的な機能体・インフラの形をもちながら、その実態は「宗教」であり、親玉は「宗教」であるということである。

これを一番原始的なかたちで反映したものがイスラム法である。

西欧では、たとえばドイツやフランスなど、血を流す場面もありながら、様々な「物理的・共同幻想な」戦いのゆえに勝ち取られたものが「法」であり、我々日本はアメリカへの敗戦後、法体系の基幹的な部分についてはアメリカからインストールされたかたちになる。

これだけ迂回して何が言いたいかといえば、

「法とはどこかでドグマにたどり着くものであり、それ以外の形をもちえない」

ということだ。

だから、

「未成年(18、19歳)との性行為は許されるべからず」

という定言命法の根拠はなにか?ということを問うたときに、我々はそれを裏付ける何かしらの「ドグマ=宗教」を必要とする。

実態として、フーゾクなどでも「年齢」のみで定義すると18歳よりジョインが認められているようであるし(参照はよく都会で人材募集をやっているバニラより)、すると、争点は

「高校生か、否か」

によるのだと思う。

結局、「何が正しいか」という視点で語ったとき、答えを出すのが非常に難解である。

学生であるか・否かが争点であれば、うちの妻は30代であるが学生証をもっているし、

18,19歳であるか・否かが争点であれば、「高校に所属している」ステータスでなければ、現状性風俗での従事が認められている。

なので、成人年齢が18歳に引き下げられるにあたって、18歳高校生・・・がAVに出演する・・・というのはロジックとしては通っている(ようにみえる)。

ただ、個人的には高校生(18歳)のAV出演をオフィシャルに認めることは社会善としてよくないのではないか・・・・と思われる。

理由は以下である:

========================================================

1. この制度の解禁により、18歳の女子高校生にAV視聴者からの需要が殺到する(過度な一般化をすれば、オスとは、残念であるが自然状態でそういう生き物である)

2. 18歳の高校生という時間軸で、自らを性的オブジェクト化する自己決定権(もう少し厳密に言えば事理弁識能力)を持っているとは言い難い

3. 経済的困窮層のこどもが集中的に、AV業者や個人に狙われるケースが爆増する可能性がある

4. 悪い親を持ったらそこで終わり

5. AVは、恋愛や結婚などと異なり再生産につながらない。

6. 得をするのは後ろめたい欲求を持ったオッサンだけ

========================================================

「18歳女子高校生」という、「シンボル・ステータス」を性的な搾取の対象にすることを公に良しとするのは、その事例がどんどん「悪用」されうることも意味し、家庭の事情でやむなく好きでもない相手に傷つけられたり、そういう高校生を生むことにもなるのではないか・・・と思うのである。

無論、私個人は漫画家「すがのけい」という側面ももっていて、会社のもつ同人サークルの活動の一環としてJKのキャラにエロいことをさせる漫画・GIFや声優さんとコラボしたASMRなどを量産はしているのだが、これはあくまで「フィクション」であり、「フィクションであるか・否か」というのは表現活動においては非常に重要である

私の生まれ育ったキリスト教的原理に基づいて言えば、そもそも人間というのはもれなく「悪」=「どうしようもない愚かな存在」なのであって、その原罪を認めることとその救済を神に求めること、のペアが、ラフに言えばキリスト教のエッセンスである。

つまりこの人間の「原罪=悪への欲求」への受け皿・ソケットを提供してあげ、そこから利益を得ること・・・これがAVであり、またエロ漫画であり、エロゲーである。

一部の方々は頭があまりよろしくないので、こういった人類の悪の受け皿を作って売ることよりも、「無知による陰謀論の反復や拡散」のほうが1億倍社会にとって有害だ・・・ということを理解できず、SNSでほぼ誰も読まない「自慰行為を反復している」のである・・・

ここで、重要なのは、AVも「フィクション」である・・・というところである。

一般に、オッサンはJKが大好きである。(きもい・・・)これを、あらゆる社会主義的全体的な方法で持ってオッサンを窒息させたとて、この方程式がなくなることはない。

ゲイも、熟女好きも、Sも、Mも、おもらし好きも、リョナ好きも、巨乳好きも、亀甲縛り好きも、イメクラ好きも、高身長好きも、スカトロ好きも、ロリコンも、ショタ好きも、男の娘好きも・・・

そういった性的倒錯や(ダイバーシティ)がなくなることはないだろう。

また、この倒錯を持っている人間が「社会的な底辺層」や「犯罪者層」に偏っているわけではなく、富裕層も、警察官も、医者の大先生も、政治家も、あまねくこういう性癖は個人の内的な問題として・・・・潜在的に存在している・・・と思われる。

これらの性癖は、

1. 広く人間の内面に分布しており、これは歴史上、いかなる縛りをもってもなくなることはない。(究極は、例えばチェチェンやイスラム諸国みたくゲイを摘発して牢屋に入れるしかない)

2. 歪曲しており、再生産に直接つながらない

3. ものによっては、「現実」に「絶対に」実現されてはならないカテゴリがある

4. これらの性癖(性的指向)のはけ口が、フィクションであり、多くの「孤独な」人間にとっても内面性の救済となっている(AV、ASMR、エロゲ、エロ漫画など)

1. 2. 3.は絶対に固定していて動かせない。ゲイなどについては、もはや公的に認められるべき性的指向であり・・・ただ、これはゲイのコミュニティにとって戦われ、勝ち取られたという側面が大きい。

AVも、この2. 絶対に現実で許されないような次元のものについて、各性癖や性的嗜好保持者に「救い」を与えるものである。

ただ、このアプローチについては欧米では相当拒絶されるとはおもう。

ただし、これは「日本のAVや秋葉原がこれまで試行錯誤し、培ってきた文化」であり、これらが例えば独身男性や社会的弱者としてのオッサンたち(恋愛市場での敗者など)の最後の内的な自由の砦となっている。

この砦・・・すなわち安全地帯をこのおっさんたちから奪う・・・ということはすなわち、その「歪み」を誰かが必然的に受けることになる。

そう、それが例えば

「実在している未成年」である。

だから、AVなどで20を超えた女性が制服を着てあんなことやこんなことをしたり、エロ漫画で破廉恥なあれやこれや・・・・というのは、たしかに政治家の大先生などからみたら「弾圧したい」ような「醜い」「性の消費」かもしれないが、それは逆説的に、「実際の一般の人間を」「性の消費」から守っているものでもある

つまり、見た目はきれいになるが、犯罪率は大幅にあがることが予想される。

であれば、18歳、19歳「高校生」のAV出演はありでは?という主張をする人たちはいるだろうが、これは「否」である。

なぜなら、これはもはや「フィクション」ではないからである。実際の高校生を「間接的に」消費することによって、オッサンの邪な欲求が満たされているという意味で、これは「AV」本来のもつ社会に寄与する「善」の効果、が失われてしまう。

私個人は、まあ散々いろんなエロ漫画を生産している身ではあるが、(だからこそ姿勢をはっきりしておきたいが)

(旧)未成年が、例えば30を過ぎたオッサンに「性的に」消費される・・・・ということが行われるというのは、「相当ヤバいこと」だという認識は変えてはいけないと思う。

なぜなら、性というのは異性同士を結びつける「手段」であって「目的」ではないからだ。目的を主眼として考えると、露骨な年齢差の対幻想は、そもそも人格同士が調和・均衡しないか、男側が致命的なほどに「幼稚」のどちらかでしかない。前者は、搾取である)

例えば孔雀が異性をひきつけるために羽を美しくさせていったように、「異性を引きつける性的なアピール」という「画像情報」や「音声情報」・・・これら「エロ」と呼ばれるものは「美しい」。

すなわち、「エロ」とは「芸術(アート)」であり、「アート(芸術)」は「エロ」である。

西洋画家が裸婦を描くように、

エロとはアートの基幹部分なのである。

であるからして、それは髪をかきあげる仕草であったり、ハキハキした高い透明感のある声や、さまざまな持ち前の身体的特徴を十分にいかした美しい立ち振舞や、または様々な「感情消費」や・・・・

ただ、これらアートが「物自体 thing in itself」である必要はない。

なぜセーラー服はエロいのか?なぜAKBは魅力的なのか?

それは、「秩序」と「脆弱性」の調和である。

また、「生きる力」「希望」「汚れのなさ」である。

ただ、これらは「それ自体」である必要はない。

エロに携わる製作者・アーティストは、これらの「上澄み」をいかに小さな宝箱に閉じ込めるか・・・・ということに苦心しているのであって、

それが実際に「それ自体」にかかるとき、それは「人を傷つける行為」「人を加害する行為」「人の未来を奪う行為」になってしまう。

ゆえに、エロに関わる人間ほど、より「ライン」を明確にし、美学を持っていなければならない。

今回、高校生もAV出演ができる・・・という状態というのは、

「安易」であり、

「アートではなく、身勝手な欲望で人自体を消費する・・・(しうる)」前兆であり、

かならずや社会にとっては悪い影響をもたらすと思いました。

すみません、以上感想をつらつらと述べました。

https://sugano.works

No comments:

Post a Comment