今更感はあるが、僕の認識ではドラえもんには2つのフェーズがあり、一つは旧ドラえもん、もうひとつは新ドラえもんである。
これは私の偏見や独断が多分に含まれているが、私は新ドラえもんが好きではない。
というより、なんというか、生理的に受け付けない。
これは、別に新ドラえもんに関わっている人たちを否定しているわけではなく、その時代性というか、僕らが今生きている世界への違和感であるのかもしれない。
新ドラえもんは、藤子不二雄から「離れてしまっている」気がするからだ。
笑うせぇるすまんしかり、もともと藤子不二雄作品は無菌室のような、きれいな作品ではない。結構ブラックである。
個人的に、新ドラえもんは清潔である。絵も清潔で、特に、
スネ夫とジャイアンが弱毒化・・・いや、無毒化されている。
藤子不二雄先生は戦争を知っている世代の人だから、「暴力」についての肌感というか、そういう地に足のついた感覚がまだあったんだと思う。
そして、ジャイアンの暴力とか、スネ夫のいやらしさ・・・
そういう、現実社会ではよくある、その手の不条理なもの・・・無菌状態とはかけ離れた、不衛生な状態・・・
そういうものが、きちんと逃げることなく描写されていたんだと思う。
新ドラえもんをみても、個人的には、なにをいいたいのか、どこにメッセージ性があるのか、一切理解できない。
空洞なスポンジを噛んでいるかんじで、なんの実感もない。
コンプライアンスに作品のエッセンスをすべて塩素殺菌されてしまったような、そういう印象があります。
もちろん、これは私の錯覚、誤解かもしれませんし、
私が人間として偏っていたり老化していたりしているのかもしれません。
よく、自分と相手の区別がつかず、頼んでもいない自分語りを押しつける人がいますが、その手の状態になっているのかもしれません。
ただ、やはりアニメというのは世相を反映していて、
日本人は・・・というと主語が大きすぎて意味をなしていないと思いますが、
ただ、やはりよくみる市井の日本人は、
やはりどこかで弱体化している。
もう少し詳しくいうと、この新ドラえもんをみるような世代の子供達は、どこかで「嘘」の世界を生きざるをえなくなっている。
たしかに、ジャイアンみたいな暴力・・・汚いものが目の前からなくなり、コンプライアンスによって守られて清潔な生活、清潔な一生を遅れればいいですが、現実は違います。
現実には、やはり突発的な暴力や、ひどいことや、苦しい経験や、そういうものに、やはり露出せざるをえないときがくるでしょう。
そのときに、どろんこになって取っ組み合いの喧嘩をしなかった、殴り合いなんてしたこともなかった、
そんな子供がいっぱいでてきたときに、
そういう子どもたちが、現実社会に放り込まれたときに、
海外にいって、いきなりツバを吐きかけられたときに、
怖い人に脅されたり危害を加えられたときに、
対処できない。
まるでガラス細工を地面に打ち付けたように、
バラバラに壊れてしまう。
昭和の遺物が必ずしもよいとは思いませんし、
今回の吉野家のような感覚がいいとも思いませんが、(前回多少養護するようなコメントをしてしまいましたが、よく考えたらアウトでした・・・)
やはり子供から「暴力」をいっさい見えなくする、
無菌状態で囲ってしまう、
これも・・・というより、これ自体がある種の「暴力」ではないか・・・とも思ってしまうのです。
ただ、これは多分に私の価値観や偏った見方が反映されていますから、あまり真に受けるのも控えてほしいですが、
世界は暴力で溢れている。
民主主義は、今回の件でわかったように、危機にひんしています。
その中で、やはり「生き残る」という力、
暴力を知らない人間ほど平和な社会でトサカを広げてイキるものですから、
そうではなく、暴力を知り、暴力を必要に応じて行使できること。
それは、自分の大切な人をまもるためや、自分自身を守るため。
パワハラやいじめというのは、ある意味では洗脳ですから、そういうものにたいして、自分自身に暴力が向いていく結果自死を選択する、
そういう結果にはなってほしくないと思いました。
人権は、勝ち取るものです。
21世紀を生きる我々に必要なのは、清潔な嘘ではなく、現実を知ることであり、
子供もしかりです。
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