前からちょくちょくTLに流れてきていて、調べる限り壮絶な事件である:
旭川14歳凍死少女
まあ事件概要や批評、学校や教頭がいかにやばいか、については各所で述べられているので、個人的にこのような悲劇を可能な限りおこらないようにするにはどうすればいいか?を考えてみる。
まず、前回述べたように、いじめはどのような形をとるにせよ「川が高いところから低いところに流れる」ということで、
つまり暴力をもつものが暴力をもたないものに加虐性を流し、そのフローがよりエスカレートして、どうしようもないところまでいった、
そして、これは今後も散見されるんじゃないか、と個人的には思っている。
それは暴力から肉体性がはなれていったことがより関連していると思っていて、
「暴力をコントロールする」という概念がなくなった。
だから、例えば酔っ払い同士で喧嘩して、AがBの頬をなぐる、とかじゃなくていきなり包丁で首を刺す、のような
グラデーションのなさ、
取っ組み合いのなさ、
もう少し言えば「暴力」についての正しい知覚や経験の低下、
が前回の大津も含めて関連しているのではないか、
そのため、子供、学校という閉鎖された空間での暴力がよりひどくなっているのではないか、と個人的には推測する。
さて、本題に戻るが、まず問題を解決するための最低限の現状分析として、個人的には以下の要因によりいじめはエスカレートしやすい:
(1) 地域社会の子供に対しての無関心
(2) 親(加虐・被虐両方)の子供に対しての無関心
(3) 子供の、生育過程における暴力の使い方の学習過程の欠損
(4) 無菌社会
(5) バーチャル化
(6) 共同幻想の希薄化にともなう、大人の劣化(ロールモデルからの降格)
あくまで個人的な所感とか社会に対する感覚であり、これを振りかざすつもりはないし、これで誰かを非難するつもりはない。この(1)〜(3)は特定の個人のもんだいというより
は、私ふくめこのブログを読んでいる諸兄にも当てはまる共通の問題だと思うからだ。
(1) 地域社会の子供に対しての無関心
まず地域社会の子供への無関心で、これは学習性無関心とか都市化とか複数のファクターが絡んでいるように思われるが、近所の子供におっちゃんが話しかける、密にコミュニケーションをとる、ということが行われなくなった。小さい共同体ではある程度それぞれの個人情報が互助的なコンテクストで連携されていて、「だれだれのせがれのだれだれは・・・」という話がなされていたり、近所のガキにげんこつしたり・・・といったことがなくなった。
これは(5)にも関連するが社会が高度に抽象化されたこと、いわゆる子供を狙った「プレデター」が社会問題化したこと、全体的に都市化したこと・・・などがあげられる。この過程で、より「暴力関係の密閉空間」に社会が単発的に介入できなくなった。もう少し簡単な言い方をすると、女の子をいじめている男子中学生に、顎の四角い昭和のおっちゃんが「おぃいい!」などと怒鳴れなくなった。(リスクしかないので)つまり、ドグマフリーの社会においてある特定の悪のバブルに介入するのは、とても困難になったということだ。
(2) 親(加虐・被虐両方)の子供に対しての無関心
親が子供に対し無関心である、これは「親の描いた理想の子供に対しての関心」ではなく、子供のステータスについての関心である。いまどういう状態にあるのか。もしやばい状態であるなら、どんな手をつかってでも子供を守らないといけない。
吉本隆明のいう「子供の自死は親の代理死」というのを教育者が引用するのはただの「悪用」でしかなく、中身のない自身の保身のための空虚ないいわけ・・・以外の所感がないが、ただ、親として、自身の子供がおなじ状況に陥ることを防ぐには、やはりつねに本人が今いかなる状態であるのか、密にコミュニケーションをとり、関心をもつしかない。
結構当たり前でベタだが、食事は必ず毎回一緒にとるべきで、学校で何があったかも、きちんと聞き出すべき。これはたぶん義務だと思う。細切れに問題が発覚すれば、その時点で必ずどんな手を使ってでも対処する。子供を世界から孤立させない。
(3) 子供の、生育過程における暴力の使い方の学習過程の欠損
加害側の問題として、おそらくはきちんと取っ組み合いや殴り合いを子供の頃からしていない。すなわち生育過程において彼らも泥をかぶってない、「きちんと遊んできていない」、「親にぞんざいに扱われている」類の子供たちであり、彼らが取り返しのつかないようないじめに関与している場合(そして彼が未成年の場合)全責任は親にある。とみなしてほぼ間違いない。
今回の旭川の事件の場合、AVなどのフィクションは置いておいて、「リアルの生身の人間には絶対にやってはいけないこと」を彼らはやってしまった。
これは、子供の頃に、「女の子にはこういう風に接するべき」「女の子をぶってはいけない」といった基礎的な格律(maxim)の積み重ねの教育を親が怠ってきた、ということであり、つまりは親側の怠慢である。人格形成期にやるべきことを怠っていた、という意味で、コンクリ事件の加害者の親並みに罪深い。
(4) 無菌社会
もう一つは、社会が無菌状態化したことである。政治や政策もいかに社会を無菌化するかに全力を注ぐが、それはある意味では人間をより退化させることにつながっており、泥臭い小競り合いや殴り合い、喧嘩、が市街地から一掃された。
子供たちは大人をみて学ぶから、無菌(お行儀のいい体裁)か闇(極端な加虐に走る)しか選択肢がなくなる。
つまりジャイアンがいなくなり、悪いことをしても自分のことをしばいてくれる大人もいなくなった。ということだと個人的にはみている(それゆえにいじめの詳細が「残酷化」している)
(5) バーチャル化
無菌社会とおなじく、バーチャル化していていじめに肉体が伴っていない(伴っていないがゆえに加減をしらずすぐエスカレートする)
SNSとかネットインフラの登場により、子供は学校を離れても人間関係や加虐から逃げられない。
(6) 共同幻想の希薄化にともなう、大人の劣化(ロールモデルからの降格)
今回の旭川の教頭大先生の立派なご高説(トロッコとか)にもあったとおり、原則的に自己の保身を考えているだけで中身はスカスカ、自分のことだけ、使命感なし、子供のロールモデルにいっさいならない「大人」像がわりとスタンダートになってきたということなのかもしれない。
戦後我々はドグマフリーの世界、自由の世界、価値多様性の世界の恩恵を被ったわけだが、逆にみればそれは求心性を欠いた、(たとえばひとまわりふたまわり違う年下に憎悪を全力で燃やすような)みっともない大人が増加してきたという意味でまあある意味では地獄、ともいえるし、
子供は自分が尊敬できるロールモデルを自力で探さなくてはいけなくなった、ということかもしれない。
解決法
ゆえ、現行の問題を簡単にまとめると「求心的価値」や共同幻想の欠如した世界線にわれわれはおり、また、地域内における相互の干渉性が極小化されたことで暴力が「ステルス」化したことがこの悲劇を誰も止められなかった(学校側は100%怠慢であり犯罪レベルで言い訳の余地なし)。
ゆえ、もはや親としてできるのは自助努力しかなく、自身の子供をまもるため賢明に立ち回るしかない。
(1) 子供に戦うこと(技術)を教え込む
(2) 子供に(主に日々の出来事)関心をもつ、食事は一緒に食べる。
(3) 何の対処もなしえない地域・学校は「切り捨てる」
まあそんなかんじで。
ただあくまでも個人の時事にかんする自分勝手な所感なので、
お手柔らかに。
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