Monday, October 19, 2020

ツイッターを断ってみてわかったこと

何度も繰り返し主張するのも憚られるが、しかしそれは自分の中でインパクトの大きな出来事であったゆえに、ある程度は不可抗力なところがある。

ツイッターは、情報発信のメディアとしてすでに既成事実(de-facto)であり、そういう意味ではその事実を覆すことは困難であろう。なので、事実ツイッターを使用している人を一般的に否定する、ということはここではしない。

「否定」というのはある意味では人間の業に紐づいた美酒である。気に入らないあいつをやっつけてやろう、あいつよりも俺の方が優れている.... そういう生理的心理学的な欲求で人は無意識のうちに誰かを「否定」しがちである。無論、「否定」というのに執着するのは個人の弱さであるから、否定とはどちらかといえば生産的な行為ではないし、多くの場合実を結ばない。ダンテのように「言わせておけ」、というのが本質で、「言う」よりも「言わせておいた」ほうが長い目では勝つことが、私の観測範囲では多い。(カタルシスというのは手近な支配欲であり、手近なものに慣れてしまうと大きなものを成し遂げる、ということができなくなる)

そのうえで、今回のツイッターにかんする一連の「否定」はある意味では歪んだバイアスがかかっていないこともないが、これは特定のケース(ただし相当数当てはまるケース)として考察に値すると考えるのである。社会目的論的に、ツイッター使用は控えた方がいい人間が多数いて、その中に自分もいる。

その基準は、「依存性」であるし、「手近なアウトプットが可能になってしまうこと」、また、「手近なアウトプットの観照が可能になってしまうこと」、である。

つまり、例えば社会関係のなかで生きているとやはり嫌な目には遭うわけであり、どうみても道理に合わない... ということも、おそらくは全体主義の為政者とかでない限りはありうるわけである。(全体主義の為政者なら、気に入らない奴は強制収容所か秘密警察で排除できるが、これは民主主義の政体とは相容れない)

このさい、「衝動的な刺激」に対して「衝動的な出力(リアクション)」をしてしまう、すなわち何かしらの嫌なやつに遭遇してしまった場合とか、「あいつはクソだ」みたいなことを衝動でつぶやいてしまう.... または、好意を抱いている相手に対してなんらかの誤解を与え、そのことに対して弁解をしたい...

ないしは、社会関係の実体験の範疇とは別に、流れてくるスクラップの情報に対する嫌悪感や、または「この話題には関連して言ってやりたいことがある!言ってやろう」のようなノリで「衝動的な出力」をしてしまうこと。

どちらにしろ、この「衝動的な短い出力」というのが相当個人の生産性とか、または社会性にとってすらも、マイナスなのではないか... ということを考え始めた。

また、この「気に入らないやつ」というのはもしかしたら数ヶ月後には「本当は好きなやつ」になるかもしれないし、ならないかもしれないが、どちらにしろフラストレーションや陰口を安易に吐いてしまえる場所、というのはいろいろな意味でよくない。

それは、前回も触れたけれども、「ブロック単位の情報」でないからであり、もし出力する情報がブロック単位であることをほぼほぼ強制するような「ブログ」であれば、推敲したり、衝動的に書いたとしてもあとでそれを俯瞰して「ん.... これはやはりやめたほうがいいんじゃないか」と内省してそれを取り下げたり.... といったことが可能だが、ツイッターは基本ツイートという情報発信の単位が短くかつイミュータブル(不可変)であるというところからも、知性に対してマイナスな影響を与えかねない。

ツイートの頻度が少なかったり、依存性が低い人ならばそこまで心配はないけれど、多くの人はやはり依存しやすいし、依存させるようなプラットフォームになることが対顧客向けのビジネスモデルであって、まあ「踊らされている」感は否めない。

人間はやはり弱い存在であるし、外敵とみなした相手を否定したりマウント取ったりして自己の精神的安全性を確保したいようなしょうもない生き物であるから、やはり自分にとって嫌な経験があった個体に対してずっと仮想敵として批判や否定をループする(僕もまあその一員であるわけであるが)わけで、そういうのを安易に吐いてしまえるプラットフォーム、というのも負の影響があると思う。

話が散らかったが、いずれにせよ、ツイッターを断つことによって衝動的な批判をアウトプットする回路がなくなった。

もちろん、批判はしたい。だが、その批判は「ロット」として芸術に昇華されるべきである。まがりなりにも、まだ、往生際が悪いことに僕は自分を「クリエイター」だと思い込んでいる自称クリエイターである。

クリエイターにとって、アウトプットというのは洗練され、推敲され、消化された結晶でなくてはならない。それは「安易な出力=発信」とはまるで対極のものであり、そしてそれはそのアウトプットによって誰かに共感とか救いを与えるものでなくてはならない。

まあ、これも「否定」の部類に入ってしまうのだが、アートやクリエイターにおける「商業主義への否定」というのは安直であり、それは甘えであると思う。

根拠として、結局表現というのをする以上、それは誰かにとって「よし」とされるものでなくては生きる糧として成立しないのであって、どうあがいても、日本が王政とかそんなんじゃないかぎり、「消費者」に気に入ってもらえる、ということがアートやエンターテインメントにとっては生命線であり、必須だからである。

王政のばあい、もっと表現の制約が強いわけだから、「消費者」のかわりに「ヒエラルキーの上の人」、つまり貴族とか華族とか王に気に入ってもらわなければならない。

こういった努力をなしに、野放図に、自分を本質で世界の中心だと錯覚するようなケースというのは、そのアートの未熟的な段階に往往にして多い、というのは私個人の意見である。

ツイッターは表現にとってはほぼほぼ「害」になるような誘惑がこの上なく多いのであって、それは例えば承認欲求を、作品でなくツイートで満たそうとしてしまうこと.... といったことがあげられる。

長い文章であればそれは詩になったりエッセイや論文になりうることはあるかもしれないが、ツイッターというのは構造上そういう練ったりアップデートしたり、ということを許していない。

インフラとして非常に野放図で楽な方法を許してしまう。

これは、私が若い青少年たちをフォローしていて観察していた時もよく思っていて、

「絡みなければ外す」

とか

「フォローまた減った。傷ついた」

もうなんかすごいこじらせたような、承認欲求が永遠に行き場を失ったような、ただただSNSが個々人に対して手枷足枷として機能しているようにしかみえないのである。

これは、彼らが悪いというよりも、「そもそも人間性というのは本来悪いどうしようもないもの」で、そういうどうしようもない人間性にうまく取り入った媒体がツイッターである、というように感じる。

いくらフォロワーが5000人超えても、売るものがなければ価値はない。

「短いヘッドラインでみんなを脊髄反射させてRTを稼ぐ」ことをバズる、と定義した場合、

やはりそこには情報の「質」の劣化が待ち受けてるようにもみえ、(またそれゆえにフェイクニュースが拡散されやすい土壌もあり.... またプロパガンダを流したい企業や法人が一生懸命投資をして世論の声を偽装しているようにもみえる。)

もちろん、ツイッターを使っている人を全否定しているわけではないけれども、ただただそれがパチンコのように、「依存性の害悪」として個々人の時間を「奪う」ワークフローがありうる、ということだけは考察に値すると思った。

ツイッターを断ってみて、というより、「スマホ、おもんない」という臨界点をなるべくはやく出すようにスマホ上のアプリを整理して見たところ、やはりスマホ以外についやす時間が大幅にふえたことは事実だし、それは自分にとってプラスになったと思う。

また、安易に批判できない、ということ(ブログなら可能だけど、でもそれでも大きな情報のブロックとして構成できなければ批判できない.... ということは少なくとも1クッションあり、しかもそれはあとで観照して編集もできるので)も大きなプラスで、SNSで批判を衝動的にしてしまえばそのときはスッキリするが、結局は社会関係的な負債を産むだけであり、そういうものは隠した方がはるかに有利なのである(減点がないから).... という当たり前のことをなかなか気づけていなかった気がする)

今のところ、脱ツイッターは正解だ、といえそうです。

追記----------------------------------------------------------------------------

もう一つ、ツイッターやSNSが人間そのものの精神性にもたらす負の影響の懸念事項として、

「美徳(よい行い)のマイクロ化、消費化、SNS化」


という問題があると思う。


マタイの福音書6:3-4

『あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。』

 
例えば、もっとも病的だと思うのは、例えば家族(子供や親や兄弟)の、その個人に対して向けた手紙や言葉にたいして、それをSNSに食わせる材料にしてしまう、というフローである。

また、自分が誰かを公共の場所で助けた(つまり、平たく日本の土着の庶民感覚レベルの精神性で言い換えれば、「善行をした」「いい人をやった」)ときにこれを「つぶやいて」しまう。

それに対して、それがバズり、みんなに賞賛され、承認欲求を「みたして」しまう。

こういった「病理」は、とくにSNS過渡期以降、すなわちよりSNSが民主化した近年により顕在化したようにも思え、より(キリスト教的な宗教的言い方をすれば)「パリサイ人」的な、みんなのいる場所で大声で自分の(本来隠されるはずの)善行をアピールする、という場所によりなりやすくなっているきらいがある。

これは全ての個々人の「家族同士のコミュニケーション」や「善の衝動」を「SNS化・マイクロ化」させ、より、「陳腐化」させ、より、精神を「劣化」させているような気がする。

これは日本特有の問題ではなく、非常に「アジア的」だと思うし(中国にもこういう劣化版社会実験的な番組がある)、こういうのに「毒されていく」ことで、これは前述した「否定・批判のはけ口的」SNSの作用と対をなす「悪の作用」であるが、人間の精神性に大きな負の影響を与えると思われる。また、その負の影響により、長期的に精神が「侵食される」。そうすると、私が前にのべた「馬鹿野郎」層、「脊髄反射層」、「読解力の低下した層」というのがやはり比較的に「増えていってしまう」と思われ、そう考えた時にSNSは、今の座組みだと、よほど注意して使わないと思わぬトラブルに巻き込まれる可能性もあるし(事実そういう悪質なDMを受けるユーザーは後を絶たない)、であれば、割り切って一切使わない、というのもかなり賢明な方法だと個人的には思う。










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