Friday, June 8, 2018

脅威論について

脅威論というのは僕は好きではない。というより、特定の集団をデモナイズ(悪魔化)するのは、自分たちの手の届く範囲の経験が絶対化されているからでしかない。

隣接した、自分たちより経済的、軍事的ポテンシャルが高い集団が脅威として映るのは至極当然である。それに異論はない。それに、そういったものを外圧として規定したとして、外圧と均衡を取るために対策をとるというのも納得はできる。ただしそれはコインの片側でしかない。

どの集団もその国の合目的性に従っているにすぎない。そこに戦略とかがあるにすぎない。どの集団だって、自分の利益を最大化したいと思っているし、それが自然である。

なので自分たちの社会の問題点や脅威に晒されていることが外のせい、という議論にはあまり建設的な側面が少ない。「だからどうしたい」がない。そもそもこの問題でまずいのは、「確証バイアス」という人間の持つとっても厄介な性質で、自分のはじめに決めた結論や固定観念に人間は執着しやすく、それに反する言論には眉をひそめて拒絶する傾向にあり、自分の仮説や思い込みを肯定してくれる情報ばかりを取り入れようとする。

 なので多様な意見、自身の自説と真っ向から異なる意見を許容したりそれと交わることがない。結果どんどん偏っていく。その世界観はとても狭い部屋のようなもので、コンフォートゾーンではあるものの、広がりはない。

基本的に人や相手は思い通りにはならない。そして世の中には自分たちと異なる立場や文明や考えの人たちがおり、それぞれにそれぞれのストーリーがある。

基本的なことだが、気づくのは難しい。

自分の正義を持っていることはいい。ただし、自分と異なる相手を理解する努力は果たしてしたのかどうか。自分の正義は自分が正義だと信じただけのもので、それは自分の生まれや生育の経緯に根ざしている。それは絶対ではない。(絶対なのは自分が自分を生きているからである。)

こういった自身を客観化することはとても困難を伴うこともあるが、これなしには、21世紀を生きるのは難しいんじゃないかと思う。

自分に色々な対象への好き嫌いがあるのはその個人の自由だし権利ではある。でもそれは一つの部屋である。

いろんな部屋が存在し、共存していく以外に僕らの生きる道はない。

なのでそれが頭の片隅にあることは、バランスを取る上でもとても大切なことである。


※と同時に、巷でよく見かける「うちらはもう終わり」「うちらはもう衰退」論には辟易している。そんなのは嘘だしクソだね、という自分もあるし、でもあくまでもIMOである

No comments:

Post a Comment