Thursday, June 7, 2018

高野千春氏について

高野千春という漫画家の、過去の特定マイノリティに対するTwitter上での差別的な発言が問題になった。キャプチャで少しみたが、いわゆる典型的なネトウヨのそれであり、正直感心しなかったし、馬鹿だなと思った。

馬鹿だなと思った、というのは、到底一般的に許されるものではないということ。であり感心のないことについて自身の思想的アリバイを立証することではない。本当にレイシストでダメなやつだな、というのが感想だった。

 そして、彼の漫画のアニメ化は中止の運びとなった。

だがちょっと待ってほしい。 この流れは本当に正しいのかと問われると、これは極めて危険なんじゃないか、というのが僕の感想だ。

なぜネトウヨがダメなのか

この命題についてまず感情論を抜きにして考察してみよう。日本の言論空間では「ヘイト」とか「サバイバー」、という米国の単語をいびつにコピーして崇拝しているような嫌いがあり僕は好きではない。自国の、地に足がついた概念に消化できていない時点で表層的な借り物競走のような印象すら覚えるからだ。ネトウヨの与える公害というのは、まず第一にその発言や方向性が社会的なマイノリティや弱者の人権を侵害するから。一般に人間はその門地や生まれを選べない。また、いろいろな事情で日本に滞在する外国人やその家族もいる。彼らの目につくところに彼らの尊厳が貶められる言論や表現があるということが、「暴力」となり、彼らの生活空間や彼らの尊厳を奪うこと、これは暴力に該当する。そしてこの一人称の暴力を受ける感覚は、当人たちの自助努力では対処するのは基本困難であり、社会としてそれを抑圧するというのは極めて当然の社会正義だと思われる。それに、近代史の日本のコンテクストで考えても、人は人のうえに人を作らないし、人の下にも人を作らない。極めて歴史的土着的コンテクストからもシームレス、だ。

排除する側と排除される側

では高野氏への処遇(アニメの降板)は当然ではないか、ということについて僕は大きな疑問点を感じる。それは、まず排除する側と排除される側の問題だ。例えば、ネトウヨや人種差別主義者の持つスタンスや作用として、特定のマイノリティを、比較的力のあるマジョリティが排除するという構図をとるものである。我が国においては在日外国人に対しての、「穢れ」を押し付ける行為、差別的な待遇や態度、抑圧、社会的に不公平な取り扱い、名誉の剥奪、犯罪や良からぬ行為が起こった時に全ての所在を彼らに押し付けるマインドセットなどのルーティンが確実に存在していた。これは「排除する」という行為だ。
これらのベクトルが社会的に容認されないようになってきているというのはとても良いことのように思われる。

 ただし、この甲が乙を排除するという構図、この甲と乙は可変であり任意のパラメータとならなければ、それは社会的な正義ではなくただの既得権益でしかない。

 例えば、アニメ業界の資本の流れとして、特定の立ち位置の人間のスタンスが資本側と逆立していたために乙が排除されるのは当然のフローとして容認されたが、これが別のコンテクストでは乙は暗黙のうちに了解される、であるとか、前者よりも社会的な制裁のトーンが弱い、というのは非常に不公平であり民主的ではない、と感じる。これを正当化するどのような理屈も既得権益の手垢がまみれている。甲と乙のパワーバランスはスタティックではないし、立場だって代わりうるのだから。

 すなわち、共産主義的な集団が保守的な集団を恣意的に抑圧することは許されない。全てのベクトルを持った全ての個体が、甲乙どちらの側に立ってもどちらも同様の行為に対して同様に扱われ、制裁を受けたり守られたりするのでなければ、「特定の立場や背景を持った個人が社会的公正を名目に相手に対してアドバンテッジを取りに行っている」だけにすぎない。

 人は失敗や変化をする生き物である

人はそもそも初期状態は無知である。例えば 同質の個体の集団に囲まれていれば、そうでない対象は疎外の対象となる。また、人間は失敗をするし、その失敗には程度の差もある。ウーマン村本が行なった発言についても、もし高野氏を制裁するのなら考慮しなければフェアではない。それを程度が違う、ああだこうだと考えるのならあなたは自身の背景や立ち位置が高野氏と逆立しウーマン村本と同方向、というだけにすぎない。片方のベクトルや背景だけを優遇するのは、公平ではない。ベッキーなどについても、例えば個人的にはベッキーとは関わりたくないし不倫経験のある人と個人的関係は持ちたくないと「私的には」思うが、それは社会的な扱いとして本人に押し付けられる類のものではない。まして人は変化をする生き物である。甲が乙を憎悪したり差別的感情を抱いていたとしても、それは時とともに変わらないという保証はないし、その人間は何かをきっかけに考えや立ち位置を変えるかもしれない。それを、過去のネットのアーカイヴで裁き続けるということは非生産的であり、時に単に「間違っている」。(現在もその立ち位置が連続している場合は、この限りではない)。一例として、1回、強いロビーが気に入らないことをやったから一生社会的に死んでね、がまかり通る可能性が存在するのは非常にまずい。


副作用

また、この手のアレルギーの持つ副作用は、特定の動詞を持った集団への嫌悪を示せなくなる、免疫がなくなるということである。対人種、対民族的な主題ではこの限りではないが、(なぜなら人種民族ナショナリティはただのフレームワークでしかないことが多いので。例えばあなたが日本人で、私の全てに共感できるかといえばそうではないだろう。また、同じ人種でも世代でパラダイムや態様が全く変わることだってある)特定の集団が持っている「動詞」に対して嫌悪感やNoを示せない、それが社会的公正を盾に制裁の対象となる場合、それは民主主義を腐らせる可能性がある。例えばオウム真理教へのヘイトはダメ、というのをサリンの前段階で正しい主張として考えることは難しいし、癌を癌と扱えないということは社会にとっては患部が広がっていくということで、これはパワーバランスとしてもまずい。(とくに 対象の動詞の母体の資金的その他の力が強い場合、それはゆるいファシズムとして作用する)これらへの監視装置やカウンターがないということは、またそれがこれらのコンテクストを盾に封じられるということは、既得権益を助長することに繋がりかねない。

アリバイ

最後に、わかりやすい差別を封じ込んでいく時に起こるのは、わかりにくい根の深い差別のある個体の生存の可能性をあげることになる。全てのわかりやすい憎悪を「排除」していくと、「憎悪を持っていないことを」「アリバイ」にする習慣や癖を人々に与え、またそのような個体が生き残りやすくなる。今のアメリカである。下に見ていることは変わらないかそれはより強化されるが、口を開けば「僕は君たちの味方」的なやつが増えるということだ。不良はリーゼント、ヤクザはそれっぽいう格好であったほうが最低限識別し事前対処もできたが、それすらも難しくなる、ということだ。そう行った擬態をする個体をたくさん生産することが建設的なのかがよくわからないし、であればそう行った個体がもっと試行錯誤できる場所や機会を増やしたほうが結果的に差別の総量は少なくなる気がする。それに、喧嘩もできる。


まとめ

民主主義のあり方として、いろんなベクトルの個体や小さな集団がそれぞれお互いに気に入らないことがありつつも、押し合いへし合いしながら(三島由紀夫の対全共闘の際の言葉を借りれば)、それぞれが相互作用で修正していきつつ妥協点を探り合うというその本質が必ず上位にメタ認知として存在しなければならない。桜井誠も、井筒監督もどちらもアゴラの中心に立ってはダメで、そのグレーゾーンをどのようにキープし、どうやって全員をWINWINにするか。極論を殺していけば、それ自体もある意味で人権弾圧にもなりうるし、しかし極論の影響力に閾値を書けなければ死滅する個体も存在する。どちらにせよ、甲乙のどちらに何が入っても権利、制裁、動詞の閾値として同様な扱いがされることである。個人の発言のアーカイヴについて、またそれへの制裁について、必要以上のものが課される可能性へ、それがフェアなのかどうか、一人称(僕がこれに属してるから許せないんだー!)を排除して適正手続をどう確保するか、について常に警戒していなければならないし、でなければどのようなところから恣意的な暴力が民主主義を瓦解させていくかは、未知数である。
注意されたし。


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