よく一定の頻度で聞かれる、
「本を読むことで世界が広がる」
「多言語を話せると世界が広がる」
「音楽を聞くことで感受性が豊かになる」
というような格律(maxim)について、おそらくこれらの言葉では訴求力としては弱い、というか、optional(余剰性)のような印象が人々に与えられるのは仕方ないように思われる。
そもそも、「世界が広がってなんのメリットがあるのか」「感受性が豊かになるなんてどうでもいいんだけど」という反証がその個人の心象として形成されることはきわめて当然であり、ここにおいておそらく大人たち(私も含め)訴求することを怠ってきたのであろう、と思われる。
感受性はなぜ、必要なのか。
実利的なメリットは、直感的に理解しやすい。今自分が行った行為が将来どのようなメリットを自分に与えるか。これもまた、今現代をいきる我々が意識せず乗っかっている「共同幻想」のようなもので、これは時代背景的には行政体が個人の経済的な安全性を担保し得なくなったことが間接的な要因と思われる。つまり「投資」ブームの到来である。
ゆえに、学習行為や個人の技術鍛錬なども「自己投資」という呼ばれ方をする。ただ、これはある程度事実と一対一対応性を持っているから、これを「偽」とは思わない。しかし、ここで聖書のマタイによる福音書で、イエス・キリストが悪魔と戦ったときの名台詞を引用しよう
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイによる福音書 4:4)
一般的にキリスト教はオワコンやろ(神=物自体は死んだやろ)、とかいろんなツッコミがあることは周知の事実として、それでいても、これを少し僕の汚い口で言い換えると、
物質主義(materialism)のみで人間は生きることは不可能。人間には「形而上的な」インプットが生きるために不可欠である。
この言い方は多分にもとの言葉を歪めてはいるが、おそらく非宗教の言葉に多少なりとも翻訳するとこうなるのではないか、という推測である。
資本主義とか、投資、とか、はまさに「物質主義」の土台のうえにあるものであって、だから僕たちは、これに併せて自己啓発本(self-help book)とかビジネス書とか専門書とかは読むんだけど、その先にあるのは、僕らが「人間として片手落ち」になるということである。
一つの例としては大◯◯平氏の「中国人はパフォーマンス・・・発言」である。大◯◯平氏は、過去の書籍などを読んでいるとわりと東アジアの人間に対してシンパ的な印象をうけ、なぜここまでがらりと変わってしまったのか・・・については首をかしげるところもあるが、
いわゆる中国をめぐる認識というのはその人間の教養(パンではないもの)をはかるうえでは重要だ。
いま日本を構成しているもののうち、どれだけのものが中国から渡ってきたか。それが、中国の「どこ」から渡ってきたか・・・これは言語もそうであって、どこか日本のビジネスパースンの一部に蔓延している「中国蔑視主義」というのは、「ああ、かれは日本の文化歴史についてすらよくわかっていないんだなあ」という寂寥感の印象をもつのみである。ちなみに、これはイデオロギー的な意味でいっているのではないし、三島由紀夫(平岡公威)の東文彦とやりとりした十代書簡などを読んでも、彼がいかに「古典中国文学」に通暁しているかがわかる。
つまり、本当に日本を深く理解している日本人であれば、中国朝鮮を地政学的には脅威とは認識するとはいえ、「下には絶対に見れない」はずなのだ。(これは主に、帝国主義時代に日本人が培った高慢さや錯覚の残滓ではある)
むしろ、中国語や広東語、韓国語などを勉強していくと「いかに僕たちが何千年も昔の水脈でつながっているか」、を肌に感じて感動すらする。
そのうえで日本はかれらにはない精密さや独自の美徳が存在し、それらに誇りを持つ・・・・この認識は三島由紀夫も然り、だと思う。
そして、もう一つは、感受性とは(感じる質)、外界を認識(インプット)し、外界を加工する(アウトプット)の間にあるアルゴリズム(まあこの言い方もどうかとおもうが)のようなもので、
インプット → 思惟・感受能力 → アウトプット
の真ん中にある重要な「その人間自身」である。
アメリカ版「街録チャンネル」のような、Soft White Underbellyという番組があるのだが、ウクライナ難民の女性の口からでてきた言葉で面白いものがあった:
No matter who you are, you gotta have principles. If you have principles and morals, you are still person, you are still alive. If you are out of it, you are not person any more. You are not human being any more. You are just object.
誰であっても、「規律」はもっていなければならない。もし「規律」と「道徳心」があれば、あなたは人間であり、まだ生きている。もし「規律」と「道徳心」がないのなら、あなたはもはや人間ではない。あなたはもはや人類ではない。あなたはただの「物体」である。
ウクライナ難民の彼女(まさに自国を逃げざるを得なかったまさに戦禍にあっている当の本人)の言葉を推測するに、これは現行ロシア兵が行っている悲惨な虐殺や強姦などについて述べていると思われるが、これは日本人にとっても他人事ではない。
僕らは、「規律」を持っているだろうか。
規律という言葉がここで正確かどうかはあれだけど、要はそういう極限状態で自分で自分を律することのできる「なにか」があるだろうか。
多く、「自分を持たない」「カオナシ」の、「土管」のような大人が、年代関わらず沢山いるのが、日本ではないだろうか。
これはおそらく戦前戦後通してあまり変わらないのかもしれないが、日本はここ半世紀以上戦争を全く経験していない。
僕らが放り出された今の平和な世界というのは、見方を変えれば「虚無な物質主義の極限のかたち」であり、僕らはその虚無な物質主義のなかで「SNS」というおもちゃを与えられた。
世界は悪で溢れている。また、世界はプロパガンダで溢れている。
そんな中で、
「僕、モンダイナイ、普通でーーーーす!」
的な、「モンダイナイ普通」マンという、ある意味でカルトの宗教の掟のような標準偏差に強力にコミットしようとすること、
その結果ハイスピードで変化する社会についていけず、社会のお荷物になること、
ただ、これは日本が戦後そういう教育をしてきたからで、
要するに、自分でものを考える習慣がない、そして、自分でものを考えるっていうところにしか価値創造は起こり得ないから、つまりは「原理原則がない」、つまり人間というよりも機械的であり、または空洞な動物である。
自分でものを考えるということは、自分で問題を発見し、自分で問題を消費し、ぐるぐる考え、解決を試み、惨めな失敗をし、失敗を繰り返して成長していくということである。
自分でものを考えないということは、「僕普通マン」として昆虫のように周りの虫の動きに同化し、ナニも考えず、努力も発明もせず、クレームばかりを垂れ流し、周りに忖度してもらうことを求め、周りに自分の機嫌をとってもらうことを求め、変わったやつをヘラヘラと笑い、他人の成果を右から左に「パクる」ことである。または、「他人と同じであること」を執拗に要求するスタンスである。これらは一様に、パフォーマンスが伴わない。(伴っていれば近隣諸国に圧勝できる)
そして、今の時代、それが通用する余地は相当厳しいと言わざるを得ない。
事実、大企業などでのダウンサイジングなども相次いでおり、スタートアップでは一人の間違った採用が致命的な経済ロスになるので、まず切られるか、必ず居場所がなくなる。
政治の世界でも、または昨今世間を騒がせている銀行の問題でも、「僕普通マン」のもつ弊害は大きい。不安定な世の中において、求められているものは昔とはガラッと変わった。
つまり、なにかの看板を背負って、キラキラした経歴を持っておけば、たいして能力がなくても生きていられる時代は終わった。そういう人間への風当たりは、今後どんどん強くなるだろう。
Japan as No.1 はとっくに終わった。だから、個々人が戦う必要がある。
その際に、今よく日本で見るような、「スカスカ」の人間や企業体による「スカスカ」の(よくこれでKYC通ったなというレベル)の広告も、ある意味では日本の衰退の兆候のようにも見え、寂寥感が漂う。
または、誰かの創作物を右から左に、ちょっと変数を変えて丸コピ・・・といったものが横行しているのも日本の弱体化の呼び水なような気もする。
企業の目的は、「価値」を「創造」することであり、誰かの「価値」に自分の「ラベル」をつけることではない。
価値を作るということは、
インプット → 思惟・感受能力 → アウトプット
のなかの「思惟・感受能力」の高い人間を選りすぐって戦うということだから、みんなで手を繋いで適当に適当な評価でもって社会主義的になにかを営むことでない・・・・から、
ある意味ではこれが(主語が大きいけれども)日本がいつまでたっても絶対にアメリカに勝てない、根本的な理由でもある。
ここらへんは、「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」で山口周氏が、やんわりと、誰も傷つけないように述べていたことに近い。
ここで山口氏が述べている「美意識」というのは、まさに「思惟・感受能力」であって、これはただたんにリベ大の劣化コピーをばらまくために、SEOを頑張る的な「グロテスク」なビジネスとは違うし、または「今日が一番若い日です」を少し変えてツイッターに投稿するような「グロテスクさ」でもないから、
そういうものの氾濫は、日本の価値創造のプロセスにおいては結構障害になるような気がしている。
実利以外のメリット
さて、ここまで実利的なコンテクストで語ってきたが、実利以外のメリット(つまりパンではない部分)は、まさに、そのまま、「世界が豊かだ」ということである。
これは、反証で考えてみるともっとわかりやすいかもしれない。
今現代、人間は「認識perception」を軽視している。
これは日本にとどまらず、ふかわりょう氏が新聞の投稿欄?かなにかでも指摘していたが、
「認識の外部化」
の傾向が強い。
旅行に行って、きれいな風景をみて、美味しいランチをたべて、彼女たちは、写真をとりまくり、インスタにあげまくる。
すべての経験が、「SNS上の自分のステータス」のための道具となり、自分という「認識」がその「通過点に過ぎない」、つまり土管になっている。
これは、ここ数十年で起こった劇的な技術的な変化であり、ゆえに「人間」そのものの変化でもある。
人間がデータを外部化するとき、それは「人間」の手を離れてしまっている。
美しい風景をみて写真に収めた時、それは「後で見る」ためのものという猶予を与えられてしまっている。
これは、ある意味では「感性の退化」である(カメラマンとかそういう人たちは事情が違うので、ここでは除外する)
美味しいものをたべたとき、美しい花をみたとき、美しい事物にふれたとき、感動した時、
それらを自分で受け止め、認識し、感じ、考えることが人間の本質である。
SNSやデジタルデバイスは、これらを人間の手から奪った。
多く、人間が世界を「つまらない」と感じるのは、実利的な「外部化」という強迫観念が今の共同幻想になってしまっていることもありながら、「世界を感じる」ということが如何に「人間」の実存において、重いウェイトなのか・・・を忘れてしまったからだ。
「世界を感じる」ことができるからこそ、「人間は人間である」ことができるのだし、
つまり「人間は人間である」というのは、それは「人間の魂」の質の問題だし、
その魂を養うこととか、それから、世界を感じるためにより豊かになること・・・
それが、教養であって、教養とは、僕らが僕らとして世界から切り離されていないという「蓄積」であり、
その蓄積から切り離されたときに僕らに残されたものは「土管」である。
ツイッターにのせて、みんなに見てもらうための家族の手紙。
ツイッターにのせて、みんなに見てもらうための家族の優しさ。
ツイッターにのせて、承認欲求を満たすための、大事な人からのプライベートなチャット。
そういう時代に、ぼくらは生きている。
感受性が失われやすい時代、感受性を育てることが、世界の中で「切り離されない」こと、「自分が死ぬ」ということに向き合うことができること、つまり「生きる」ということに向き合うことができること、だと思いました。
以上、個人の独断と偏見でした
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