適当な雑記であり読む価値は0である。
落書き、メモ程度
現代、時間は比較的早めに動いている。ミヒャエル・エンデを待つまでもなく、我々は細切れに管理された時間を慌ただしく生きている。
ただ、これが人間にとって・・・というより、自然の一部としての動物にとって健全なものでないことは確かだ。多くのものは、我々がこれまで積み重ねてきた・・・ないし外部からインストールされた社会的な共通合意であり、我々はそのカゴの中で必死に走っている・・・
消費活動は人に一時の安楽を与える。
消費し、また人は不安にかられ、「暇つぶし」をする。
「人生は暇つぶし」というのは非常に悲劇的な言葉であって、ある意味では喜劇的であり、つまり人生に(構造的に)内実がない・・・という現代のある意味では集団心理を言い当てているのかもしれない。
人生とはなにか?
生きるとはなにか?
生きるとは死ぬことの反対であるから、
そういうクリーシェというのは空疎で月並みな構文以上に重い意味をときに持っているから、
つまり「死」を猶予されている状態である。
そのなかで、我々は意味を見出すのかもしれないし、
見いださないのかもしれない。
後者も責められるべきではない・・・そのようなブランクさであってもそれは(より人間らしいとは言えずとも)精神性の希釈された認識主体がひたすら生き、終焉を迎える・・・これは致死率のきわめて低い共同体ではきわめて当たり前のような現象にも思われる・・・・
ただ、やはり思惟する主体もいる。
思惟する主体は、思惟のきっかけはこの世に生を受けてからの苦しみであるかもしれない、それは文学者に多く見られ、例えば三島由紀夫が(吉本隆明的に言えば)「死にたい・死にたい・・・・綺麗に死にたい、英雄的に死にたい」と常に切望していたこと、ヘミングウェイが銃で自死したこと・・・
どちらにせよ・・・それは昨今の(大衆によって美化され、フェイクの伝説として神格化され、政治プロパガンダに使われるところの)芸能人の死・・・といったものも含めて、やはり人間の実存には深淵がある。
この彷彿とする深淵に対する救いはなにか?
この忙しい時間を緩和するものはなにか?
それは「nullity」である。
細かい用語の解説は抜くとして、つまり「空」である。
つまり、
つねに何かをインプット(アウトプット)しなきゃ・・・という強迫観念に駆られている人々にとって大切なのは
「休止」
すなわち
「空」
である。
軽視されそうな瞑想のなかに、その中に時間の重要な本質があり、そういうのは隙あらば「スマホ」の精神性(=貧しさ)とは対極なものなんだ、
それは、よく厨二的な浅いメンタリティにありがちな、
「俺はいろいろ広く浅く齧って全能者になる!」
的な錯覚ではなく、
もうすこし中世的な時間を生きること、
前近代的な時間を生きること、
もう少し自然と密着すること、
自然と忠実であること・・・・
というところにあるんだ・・・・
完 (特にオチはない)
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