Thursday, July 22, 2021

もうすこし、小山田圭吾氏といじめについて

 今回の問題というのはいろいろな複雑なファクターを抱えていると思っていて、

「いじめるやつけしからん!」

という世論自体はごくごく「自然」な流れだと思っていて、というよりそれ自体に異論はない。

そして事実小山田氏が過去に得意げに露呈させた「壮絶」ないじめの数々は、もはや「虐待」というふうにみなしてもいいものだと思う。

そして、私個人の高校時代にも、実は同じようないじめの経験をしたことが何度かある。

1つは、Tというすごいサイコパスでやたら筋肉量があるやつがいて、彼とトイレで取っ組み合いになった。

取っ組み合いになった、というのは、Tは私の顔を男子トイレの小便器に押し込みたい。

ただ、私は柔道を中学1年からやっており、彼の「いじめ」の願いは叶わなかった。

次に彼が試みたのはPHSでの人格否定のメールだったが、これも私はやりかえした。

また、中学時代一緒につるんでいたサッカー部のイケてる友達がいて、(私はいけてなかったが笑、彼はナードにも寛容だった)ただ彼はその低身長から、彼自身が不良であったにも関わらず他の不良(これが犯罪者すれすれのサイコパスだった)に恐喝される、という事象があった)


不良同士にも、いじめは存在する


ここで、「俺はいじめられなかったよ」ということをアピールする意図はなくて、

ようは、


いじめには本質的な共通点や段階がある、ということである


これは、暴力を媒介とした個人と個人の関係であって、ただ、もちろん個人対集団のかたちをとることもある。


その本質的な共通点は、「暴力というエネルギー量が上から下へと流れ落ちる、ということ


で、その上から下、というのは「暴力のエネルギー量が高いところから低いところへ、加虐性がむかう」


ということだ。

おそらく今回「排泄物を食べさせる」「自慰行為を強要する」というところが最もショッキングな事例として公に出たと思うが、昔の大津いじめのときも


「昆虫を食べさせる」


というのがあり、

ここまでくると、この「暴力のエネルギー量」の差があまりにも開きすぎてしまったこと、


が原因と考えられる。


これは、大人の社会でも同じであって、


加害側にたった人間は被加害側にたった人間が


「こいつはやりかえさないだろう、こいつを攻撃しても自分にはリスクがないだろう」


という確信をもってしまった状態、すなわち暴力のエネルギー量の高低差が起きた状態、

さらに、

学校という密室空間で透明性が確保されていない、という治安の悪い状態、などが重なった状態、ともいえる。


制度的に、仕組み的にはこの「もてる暴力量の格差」

といったことがこの「いじめ・虐待」を産むのではないか、と。


吉本隆明ですら、「自分はいじめもしたし、いじめられもした」というかたちで、思うに、多くの人間は両方の立ち位置を経験したのではないかと思う。


対処法

今の日本の傾向として、表面的に「問題がないか」のように振る舞う、なにかしらの「公の仮面をかぶる」といったようなことでは問題は解決しないと思っていて、一般的には、クラシックな解決法しかない。

それは、(1) 暴力の高低差を極小化すること、(2) 逃げることである。

(1)は大人の介入を想定しない方法、(2)は大人の介入が想定される方法である。

(1)暴力の高低差を極小化する、というのは、例えばいじめをしている人間に対してなんとしてでも「やり返す」というわりと凡庸な方法だが、それでもこれは一番確実である。

いじめを行う人間の一人称はこうである:

「こいつはやりかえさない、だからやっちゃえ」

そして、このいじめ行為・暴力行為というのは本人の純粋な人格欠陥からくるものや、または集団心理によるもの、または、「置き換え」によるものがある。

特に注意しなければいけないのは「置き換え」であり、これは大人の社会でもあり、親とか、誰か自分が争いにくい立場の人間から何かしらのハラスメントを継続的に受け、その暴力を自分よりも弱い立場の他者に対して「転送する」行為、

言ってみれば人間の弱さ、としての「いじめ・暴力」である。

小山田氏が過去の障害者の方への暴力行為を「露悪的に」出している、というのは彼のなかでの何かしらの強迫観念がある、といった見方もできる。

いじめという加虐行為にはいろいろな心理があり、その動機は千差万別ではあるが、いじめを行う対象にたいして、またはいじめを行う対象に関連するものにたいしての強烈な劣等感・コンプレックスが起爆剤となる場合もありうる。(存在自体が脅威である相手の否定により、自分への否定を帳消しにする)

そして、これらの発現のいじめをさらにエスカレートさせるのが、相手がその暴力に対して「やり返さないこと」である。

なので、暴力の格差を「極小化する」こと、が大事である。

極端な話、相手に対して何かしらの深刻な危害を加える、という選択肢ものこすのがよいだろう。

ただ、この「加虐側の深刻な加害」「被加虐側の深刻な加害」といった悲劇を最小化するためには、子供のころからある程度小さな取っ組み合いや小さな怪我を繰り返すこと、が重要な学習のプロセスなのだが、

あまりにも今の子供をめぐる社会(子供だけじゃないけど)が「無菌化」してしまったことで、よりいじめの暴力の手段が「極端になってきている」のではないか、と推察する(ただこれは個人的な憶測の域を出ない)

とにかく、やられる側がやり返す、やられる側が相手より強くなる、か相手が面倒になるくらいの力をつける、というのは(一部ハードルが高いとしても)最も再現性の高い解決法ではある。


(2)(1)の選択肢が困難である場合は、逃げるのが一番良い。

ひとつには、子供のひきこもり問題というのは大人がこのいじめ問題(ひきこもりが全ていじめがトリガーであるわけではないにしても)に気づくことができず、子供の側で自己防御を行なった結果としての一面があると思われる。

なので、理想論ではあるが、周りの大人が彼ないし彼女の異常に気づくこと、そして、可能であれば学校内の人間関係をより疎結合にすることが重要ではないか、と思われる。(今は結構土地に縛られているような気がする)


まあそんなかんじで。


いじめというのは誰でも加害者・被害者になりうる個人間の「暴力の高低差」の流れであって、それが放置されて取り返しがつかなくなる、というのは大人にも責任の一端が存在する。

ただし、解決する場合は大人が役に立たない場合も結構あるので、その場合は本人でそれを解決するしかない場合が存在する。

そのさい、「やり返す」というのは一番効果的な方法である。

どちらにせよ、この「いじめ」の問題が特定の個人を叩けばいい問題ではなく、

社会全体で、また一人一人の問題として、考えていく必要があるんでないか、

と思う。


いじょう


※なお、上記記事は個人の一般的な時事に対する考えであり、特定の個人・団体は関係ありません!


この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は screen-shot-2021-06-01-at-23.03.30-1-1.png です


No comments:

Post a Comment