Thursday, December 10, 2020

外山滋比古の「乱読のセレンディピティ」を読了した

 ざっくりいうと、


1. 同じジャンルの本を偏って読んだり、「読む」だけで知識をためるのみだと「知識バカ」になり、セレンディピティ(イノベーション)は生まれない。

 2.   ゆえに、全く関係のないいろんなジャンルの本を、ランダムに流すように読むと新しいアイデアが生まれる


という雑なまとめ方ができる。

外山滋比古さんのバックグラウンド的に、どうも「知の巨人」という呼び方がしっくりこない。アメリカであれば Noam Chomsky あたりがGiant と呼ばれているが、これは(i)かなり正確に膨大な根拠を元に世界(や時代)をまとめられているから(そして他の追随を許さない)であることと、(ii) その時代に「イデオロギー的な」インパクトを与え、多くの人や社会そのものの屋台骨にまで影響を与えたからだ。

そこまでの体力をして「巨人」と呼称するのならわかるが、少なくとも「乱読のセレンディピティ」を読む限り僕の感じたのは:


1. それぞれの主張について、一人称や主観が大きすぎ、根拠が恣意的である。

2. 定量的な知識をもつことやその主体に対するルサンチマン(私怨)がある。

3. 留学経験のある人間へのコンプレックスや怨恨がある。

4. 全体を通していくつか洞察(insight)はあるが、多くは感想文にはじまり感想文に終わっており、事実断定のための適切なプロセスを欠いている。


ただ、思考の整理学をまだ読んでいないことと、この人が九十代?になって書いたらしいので、まあある意味では耄碌したおじいさんの日常会話を聞いた、というだけなのかもしれない。一部はああそうか、と学ぶところもあったが、ただ悪い意味で文系に偏った世界の切り取り方だな、とも思った。


1. それぞれの主張について、一人称や主観が大きすぎ、根拠が恣意的である。

「知識をとるか思考を取るか」という二元論的な観点をもっているが、知識は思考のための材料で有り両者はお互いに必要不可欠である。知識と思考が相互にトレードオフな性質をもつのであればその根拠は、ある程度科学的に示されればならないが、信頼に足るレフェレンスがほぼ皆無で有り、ほぼ本人の空想である。

また、一旦知識信仰に入ってしまうと、本質的な生活を取り戻せない=すなわち知識を多く得る選好性は知性の本質でない、ということを暗に断言しているが、知識は知性の一つで有り、残念なことに、この文明は外山さんのいう「知識バカ」によって維持されている。つまりジェネラリストではなくスペシャリストが多くの場面で社会を根底から支えているということだ。例えば、医者が全員ジェネラリストで、医学の教科書は適当にかいつまんで流し読み、残りの8割はいろんなジャンルの教科書を乱読、などとなったら医療は維持できない。学際的なスタンスは確かにイノベーションをうむが(そして、これをわざわざセレンディビティなどと言い換えているところにナルシシズムを感じるが)、いわゆる一本だけに特化したスペシャリストがいかに我々の文明や生活を支えているか、に対する敬意が欠けている、という意味ではそもそもこの人は世界をぜんぜん把握できてないぞ、と思ってしまうのである。

申し訳ないが、巨人というよりは、数ある新書のうちの一つをたまたま手に取った、それもどっちかというと自分語りが鼻につく。。。という印象しか持てなかった。

そもそも、巨人などという大それた言葉をおいそれと安っぽく使うことに問題があると思っていて、少なくともこの著作に目を通す限りでは三木清のほうがまだ「巨人的な」包括性とか事実・認識に対する誠意があるし、阿部次郎とか、倉田百三とか、吉本隆明とか、そういうものと並べてもなおこの感想文を「きょじん」と呼ぶのか?言葉をインフレさせて言葉の価値をゴーゴーバーに叩き売るのが果たして「知」の世界にとっていいことなのか?そもそも「知」をなめてるんじゃないのか?と首を傾げてしまう。


2. 定量的な知識をもつことやその主体に対するルサンチマン(私怨)がある。

一貫して知識偏重型を目の敵にしているが、おそらく外山さんにみえているのはシミケン的な隙あらば雑学的なものなのか、そうでなければ知識(もっと違う言い方をすれば情報)がいかに人間や種の生存にとってボトルネックなのか... はわからないとちょっとやばいと思うが、おそらくは外山さん個人の何かしらのコンプレックスによって、彼が否定したい対象として「知識野郎」が煩悩としてつねに消えなかったんじゃないか、と思える。

おそらくは外山さんをかつて見下した誰かなのか。


3. 留学経験のある人間へのコンプレックスや怨恨がある。

これについても、留学経験があるとセレンディピティがないというのはちょっと何を言っているのかわからない。こういう個人の感想文を一般化してあたかも事実のように言い切るのは「アカデミックな世界としては」あまりにも乱暴であり、どういう統計をとったのか、反証はないのか、統計の母体と統計の手法と自身の根拠をうらづけるデータと反証の比など、おそらくグラフの一つでも出さなければ、(大変申し訳ないが)あまりにも知的な主体としてはお粗末すぎるのではないか。


宇多田ヒカルにはセレンディピティがないのか?


「りんごは白い」!と叫んだらそのままりんごは白くなるわけではなく、そこには根拠がなければならない。細木数子の占星術の本をよんでるわけじゃないので、巨人さんマジで勘弁して欲しいと思った。

自身のコンプレクスについて、それを癒すためにコンプレクスの原因であるステータスや属性を下げる、という弱さはよくみる愚かな光景であるが、そういうのを見せられている気がして、あまり感心はできなかった。


4. 全体を通していくつか洞察(insight)はあるが、多くは感想文にはじまり感想文に終わっており、事実断定のための適切なプロセスを欠いている。

コンピュータの2045年問題で「サラリーマン」を「踏ん反り返る」と表現するあたりも、「あ、こじらせてますね。。。」としか思えなかったし、人間の付加価値として膝付き合わせて会話する能力はとられないだろう... というような発想もきわめて幼稚としか思えなかった。(乱読するのにOreilly程度も読めないんすか。。。)

大変申し訳ないが、いろんなジャンルのいろんな知識が中途半端で、


あ... 乱読ってこういうことっすか...


というがっかりした読後感であった。


乱暴な物言いでずっと書いてしまって、不快な思いをされたら申し訳ないですが、虚心坦懐に素直な感想を綴ってみました。


みなさんももしよかったら読んでみてください。(宣伝で罪滅ぼし)https://www.amazon.co.jp/dp/B01M2ZNNSS/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_AmH0Fb4QDDHFS

No comments:

Post a Comment