Saturday, November 28, 2020

時間について

吉本隆明の「ひきこもれ」を読み返していた。コロナというのは、やはり世界に大きなインパクトを与えた。多くの人が犠牲になったし、悲しい事実である一方、これをきっかけに社会のパラダイムシフトが善悪含めて起きたことは確かだ。

昔日本のスタートアップや中小企業にいたとき、私はリモートで仕事をできる体制を整える必要性をかなりプレゼンしていたし、スタートアップでは制度まで事実作った。

コロナ前のパラダイムとしては、


1. 東京の一極集中

2. 共時性

3. 詰め込むことの経済性


の3本が基軸であった。まず、1. 東京の一極集中では、というより、東京大阪のおよそ二極化というのがあり、ビジネスをするときにここに居を構えないと営業もままならない、という実態があった。また、2. 共時性が前提としてあり、その場にいなければ業務は遂行できない、という「信仰」に近いものがあった。昔私がOmiseにいた時に週2のリモートがあり、(これはタイが開発のベースというのもあるが)その恩恵を受けていた。そして、3. 詰め込むことが経済性と等価とされていた。

ご存知の通り、これらは全てひっくり返ってしまった。菅首相が過去に行った大きな実績としてふるさと納税があるが(なぜかうちの嫁、外国人のくせに勝手にふるさと納税をしていて笑ったが)、一極集中が今後崩れるのであれば、確かにいまいくつかの業界で打撃的な現実があるものの、これがある意味で(サイコパス的な言い方をすれば)淘汰の過程であり、社会全体の構造が今と異なる感じで生き残っていく、というように考える。これはもっと言えば、地方が強くなる、ということでもある。(過疎化、とかの問題にも光があるかも?)

そして 共時性も必要とされなくなっている。確かに、Slackなどチャットツールベースを徹底するとテキストベース特有の誤解などが起こりやすいが、これをZoomやGoogle Meetなどが補完するという形になる。

さらに、これは都市部の人間は共通で感じているかもしれない、「詰め込むことの経済性」という仕組みである。従業員も、客も、狭い部屋のなかに可能な限り敷き詰められ、そういうストレスになれるよう社会的な仕組みとして強制されていたが、コロナ後「ソーシャル·ディスタンス」という概念が生まれた。


さて、「ひきこもれ」に戻るけれども、これまで恐らく社会的に疎外されていた「ひきこもり」という人たちは、今よりチャンスが増えているのではないか、と思う。多くの人は「ひきこもる」ということは精神的苦痛が伴う。そもそも、生物学的に例えば、6畳間のアパートにずっと閉じ込められるっていうのはやはり参るものがある。これまでは、「共時性」が担保されなければ「コミュニケーション」できなかった、という人たちがこの「コミュニケーション」の輪に入るチャンスがきたことで、より「生産性」という概念が変わるかもしれない。特に吉本氏がいうようにひきこもる行為が「自己の価値を増殖させる」ということに直結していれば尚更、考えるということをより定量的に行っている人材が何かをなしうる、ということはありうる。


「みたいものだけをみる」習慣ができてしまうと「みたい(気持ちのいい)嘘」に毒されてどんどん退廃·孤立をしていくが(ポルノ漬けになって堕落していくように)、「より幅広くものをみる」という習慣さえ維持できていれば、恐らくは多くのコミュニティに属することができる機会が与えられた、そういう21世紀だと思う。


また、「時間の連続性」を重視している吉本さんの記述にも共感できるものがあった。とはいえ、私のように既婚者だと、家事も分担する必要があるし時間の断続性というのは避けられない。「時間が断続的になると何者にもなりえない」という言葉は耳が痛かった。(ただ、主婦をやっている女性というのは私が関わった限り非常に優秀な方が多かったので、これは男の理屈であり、事実のA面でしかない、という見方も可能だ)。


他には、いじめられて自殺する子供は「自殺願望を持った」親の代理死である、ということも言われていて、これについては私自身の見解は無論、私がこの立場になったことがないので軽いことは言えないが、三島由紀夫氏(面白いことに彼のことはいろいろな知識人や作家によって触れられていて、その人ごとに切り口や見解が異なる(遠藤周作など))は乳幼児期に母親から、祖母に無理やり奪われて乳を飲まされたりとかなり無茶苦茶な育てられ方をした、だからいつもつねに死にたい死にたいと思っていて、それに争うように刻苦勉励した、ここらへんのアンバランスさはその他の文学者(ヘミングウェイとかも)ともあわせて、割と真かな、と思わせることがあった。


人の一生に与えられた時間は限られているので、どのようにその時間を使うか。


仕事をする人間·社会的な人間としての面は一つの面(共同幻想)

家族の中の自分、というのも一つの面(対幻想)

そして、自分が自分である、個人、うちなる世界としての自分(自己?幻想)


妻は中国人なのだが、これらをきちんと切り分けられる気がしていて、やはり仕事に没頭しているだけではなく家族の時間とか世界がだいじなウェイトをもっている。


ここについては、日本人やアメリカ人(のとくにホワイトカラーは)ワークアホリックで家庭を顧みない、ないしは、仕事場や社会としての人間関係でうけたストレスなどを家族に当たり散らす、などという愚かな現象も多々あるようにも思え、海外に学ぶべき時間の尊さのようにも思える。


どちらにせよ、妻から学ぶことは多い。


ふるさと納税とか含めて(ちなみに苺🍓が食べたかったらしい)










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