最近、syamu gameことsyamu氏が話題となっている。
syamu氏にはおそらく・・・私の知る限りでは二つ日本のインターネット空間にもたらしたインパクトがあって、
オフ会0人という伝説を残し、ネットミミとなったこと
ネット上の笑い物として消費されたこと
この2つが主要な彼の本質だと思われる。
まずハセカラ騒動や岩間騒動など、ネット黎明期にホットであったアイコンたちに共通するものは、これら
「たれでも安全に見下すことのできる異常者を祭り上げることで、カタルシスを得る」
という間接的・観念的なリンチの形態をとっており、これはsyamu氏についても同様と言える。
社会学用語ではこのような「異常者」・・・すなわち共同体のもつ矛盾が一気に表象される点を「モックキング mock king(=偽王)」という語句であらわしている。
ここで私個人がsyamu氏を可哀想な犠牲者・・・という扱いをしたいわけではないが、ただ、実態として、インターネットのインフラが整った現代彼は現代のモックキングと言えるだろう。
ハセカラが宗教の形(恒心教)をとったのも、この「祭り上げて殺す」というある意味ではサイバー・リンチの形態が抽象化されたものであると思われるし、イエスキリストなどが最後十字架にかけられたのも同様の様式である。
つまり、彼が「オフ会0人」という「伝説=物語」によってアイコン化したこと(祀られる)ことと、彼が「軽蔑されるべき障害者」として消費されるというこの二つのベクトルは、一見異なる性質のようにみえて、コインの表裏であるということだ。
特に怖いなと思ったのは、「障害者はsyamuのような性欲おばけだから、障害者は同情に値しない」「ほらみろ、こういう傲慢不遜なのが障害者だ、害悪だ」といったような書き込みがちらほらみられたことだ。
これはsyamu氏の精スプによって「障害者」全員を十把一絡げにする、例えば外国人で犯罪者がでれば外国人全員を犯罪者としてカテゴライズしてしまう、そういう危険な差別的マインドセットが組み込まれており、彼がそのようにネット社会に消費されてしまったこと・・・・というのは人間の本質が全く変わっていない様におもえる。
これはsyamu氏だけの話ではなく、芸能人やその他公人についても言えるのであって、
社会的に成功しているであろう彼らというのはある意味では「妬み・嫉妬」の対象でもあり、あるスキャンダルを皮切りに「ほらみろ・・・あいつは○○だ!」という極端な単純化・悪魔化のターゲットになる、
そして「辛辣なだけで中身のない」主体の執拗な言葉の暴力によって、命を落とした事例が後を絶たない。(木村花さんなど)
syamu氏のもつ「異性に対するあまりにも露骨な何か」というのは確かに異常ではあるけれども、それ以上にそれに固執して、過度な一般化を行って障害者全般をこき下ろすという民度の方がより危険な「異常さ」だと思っていて、
それを果たして放置しても良いのか・・・・と思う今日この頃でした。
Gumroadはじめました
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