前回は自作ポエムっぽい感じだったので、今回はもう少しテクニカルな側面からこの問題について語りたいと思う。
バブル期と違い停滞期や少子高齢社会に突入した我々日本人にとって必要なのは「小さな幸せ」である。
これはいわゆるプア充を揶揄して「ああいうやつらにはなりたくない」・・・的なニヒルなコンテキストでも用いられるようだが、それはちょっと理解が浅い。(いわゆるひとつの単語の意味・原義を「定義し直す・付けかえる(redefinition/rerouting)」ことによって単語や概念の陳腐化・差別の道具にする一部でみられる「悪い癖」のように思える)
小さい幸せ・・・をもう少し経済面物理面に落とし込めば「ミニマリスト」となるし、
どれだけ年収が高くても生活水準を極端にあげない、中産階級レベルにとどめておく・・・
これが「経済的な」小さな幸せである。
多くの「大きな幸せ」を求める人が、実生活・実力以上の虚栄の装飾品やモノを購入して自己のステータスを盛ることに躍起になる。
ブランドのバックを買うために消費者金融で借金。
自分の年収や属性以上の奢侈品の購入。
また、社会的な幸せ、つまり自分を相対化することによる幸せ、すなわち承認欲求である。
例えば、シリコンバレーでは落ちこぼれのエンジニアでも、地方の零細IT企業にいけば凄腕のヒーローになるだろう(ここではあくまで荒い解像度で描写している。)
例えば、インスタでは埋もれてしまうような「ちょい可愛い女子」でも、地方の小さな職場ではヒロインになれるだろう。
そういう「スコープの狭さ」が求められている。
スコープが広すぎて、自己イメージが削られる。
もちろんスコープの広さ、そういった露出が自分にとってプラスに働けばいいが、人間の多くにそんな建設的なポジティブ思考を強いることは不可能である。
だから、社会があまりにも抽象度が増して、情報社会が加速したことは、
おそらくはそこまで脳が進化適応していない人類にとっては負の側面も大きい。
情報の氾濫によって、一つ一つの情報の価値が薄まってしまった。
つまり情報の密度が薄くなっていった。
技術革新とかAIのもたらす恩恵は膨大であるし、また、事実その技術の不可逆を考えるとやはり我々はそれと共生しないといけない。が、
「自然を忘却する」
ことの代償は非常に大きいんだ、ということ。
例えば女子中学生かなんかが
「私はアフリカの子供に手を差し伸べたいです」
なんて感想文にかいちゃう、で、
「ほんとうにそう思ってる?」と私は塾講師時代にきいたんだけど、
首を横にふる。
実際にアフリカに行きたいわけじゃない、そこで手を汚したいわけじゃない、相変わらず自分は安全な先進国で安全に生きる。
でもこれはこの子が悪いだけではない。
大人の要求に内実がない。「いい子」を求める。つまり向き合っていない。
やはり「自然」とか「現実」とかがどんどん忘却され抽象化されていく、
そのなかで僕らはおそらくは「時間」とか、「注意」とかを失う、
おそらく本は読まずに一日SNSにへばりつく、
つまり技術側の発展に反比例して「脳が」、「人類が」退化する、
すべての体験はスマホの画面とかショートビデオに移り、
すべての体験はスマホで写真をとることに始まり、スマホで写真をとることに終わる。
でも、体験とは自分の五感で感じることだから、
これも「感じること」の退化といえる。
感じることが退化するから、
より「大きな幸せ」が必要になる。
前のポエムではそういうところがコンテクストとしてあって、
どれだけ世界旅行をしても、一つ一つを感じとる感受性が欠落していたら、(つまりスマホにはじまりインスタに終わる知覚であれば)
それは一つの街で一生を終える感受性高い子供の、ふと道端に咲いた一輪の花を、じっと10分眺める経験に遥かに劣る。
ここらへんはふかわりょうもカバーしているとおもうけど、
だから大事なのは「物理空間」というよりも「感受性」だということ、
つまり人工物よりも「自然」のウェイトがより大きいんだということ・・・
これは日本の美徳でもあるし悪い癖でもあるのだが(過度な一般化をすれば)
あらゆるものを表面的に消費する(ゆえ、クリスマスあり教会で結婚式を挙げ神社にお参りする)が、エッセンスは棄却する。
つまり、「小さい幸せ」という概念もそういう「猿真似」「中身の棄却」「リファレンス化」「陳腐化」「原義やコンテクストを無視・無理解からの戯画化」という流れをたどる。
ただ、それは少なくとも私の知っている「小さな幸せ」ではなくいわゆる「藁人形バイアス」だし、その藁人形をいじっているマインドではやはり人は幸せになれないのではないか。
小さいスコープで誰もが必要とされるべきだし、
小さいコミュニティで誰もが誰もにとってかけがえのない役割を果たすべきだし、
ステージ上で輝くアイドルや美女ではなく、一番素敵なのは自分の嫁である
そういうのがなくて、「大きな幸せ」という虚像を追いかけ、
破綻し、
幸せの感度が鈍化し、
すべてがSNSに収束する、
それは現代人にとってはマイナスだと思いました。
小さい幸せが、その土台がしっかりしていなければ、そういう主体は、個人的にはプア充以下とすら思える。
小さい幸せとは、刺激を大きくしていくことではなく、感受性の質を高めるということ。
小さい幸せが大事である。
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