Saturday, November 27, 2021

露悪について

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「露悪」という単語は、おそらくは現代を語る上では重要なキーワードだと思っている。

というのは、おそらくはそれをもう少し精度を高く翻訳してあげると、「露出された悪」・・・もう少し踏み込めば「露出された悪への明確な拒絶」をコンテクストとした社会のことだからである。

現代はコンプライアンスの時代だ。

めちゃイケのようなコンテンツも今では作れなくなったし、テレビは視聴者からのクレームで尖った番組が作れなくなった。

90年代に通用していたようなブラックなコンテンツはもはやそれは通りに存在してはならないもの、排斥するべきもの・・・という風潮になって、それが当たり前になった。

この、「ちょっとした悪でも露出されることについて過剰な嫌悪感、拒絶反応をもつ」

という大衆心理は、まるでホームレスを排除した街のように、

綺麗な景観であり、それゆえに「無菌」であり、

「無菌とは脆弱さのことである」

という所感しか個人的には感じえない。

これは別に日本が・・・というよりも全世界的な動きのようにも見え、

「きれいなものしかみとめない」

という完璧主義・・・というか、

でもそれはある意味では人間の持つ実存とか本質から目を背ける、

「実際にそこにある人間の本質」を「恰も無いように」

きれいな「体裁」だけを繕う人間を量産する行為だ、ということ(まるで一部の女子中学生がこぞってアフリカの子供に手を差し伸べたい作文を書くように!!!!)

そして、それはもう少し踏み込めば

「弱いオスを量産する、ということ」

のような気がしていて個人的には首を傾げざるをえない。

もちろん、これはあくまでも僕の切り取った世界だから、本当の世界と完全にマッチする・・・などという倨傲はないけれど、

ただ、個人的にそう考えている。

バイ菌のない完璧な状態・・・・という先進国の到達した世界は、

例えば一昔前の、アタックナンバーワンで痛風を患ってしまう梢とは対蹠的なもので、

それはより抗体がすくない世界である。

抗体がすくない・・・ということは、ある日突然自分の目の前に現れた究極の状態、

それは、たとえば「ケネディの暗殺」なんかのような、

「俺」と「お前」の1:1の暴力なんかで、

もうどうしようもなくてひっくりかえってしまうような、

そういう個体を量産するってことで、これは国力の観点からもいいとはいえない。

日本は、特に日本はここについての物理的な・肉的な感覚を完全に喪失したような感じがある。

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この、ぼくら文明社会の中間層の人間が完全に忘れてしまった「野生」の残香を、この不良の坊やたちに求めるからじゃないのか・・・という気がしている。

暴力とは本来(それは動物の世界では)単純で一直線なものである。

単純で一直線なものであるがゆえに、それは例えば人間関係の究極の状態であり、それは人間の実存の外すことのできない一つのピースである。

これを社会から完全に排除した。

動物を屠る過程に、もう僕らは参加しない。

コロナという大きな暴力は確かに僕らを蝕んだが、

それでも僕らのなかで「肉体」というのは僕らを離れたところに存在している、

その違和感、

すなわち人間がより自然と乖離した情報社会の中でぼくらは生きているということ。

「露悪」というのは人間のもつ「悪」をスケッチする行為であり、

そういう表現自体に嫌悪感を覚えるっていうのは動物としては脆弱なのかな、という感想というか、

じゃあ「きれいなものを身に纏ってにっこりほくそ笑んでいるような人間が自然淘汰で残るのか?」

とかいろいろな疑問が湧いてくる。

ちょっとロジックをだいぶはずした文章になってしまったが、

僕は日本語自体がだいぶ昔に比べて劣化したと思っていて、

この劣化した日本語(さらには古文や漢文すら義務教育に無駄だよね、と叫ばれる昨今)で、この言語の制約のなかで僕らはときに歴史から「寸断」される、

この経験というか、種としての時空からの孤立というものが

僕らの精神に負の影響を与えているのではないか・・・・とも思うのである。

日本語は確かに劣化した。

劣化した言語表現の制約の中で僕らが認識できる世界の範囲はあくまでも限られてくるから、

なので文学っていうのは、

ぼくらの言語の土台を守るというか、

メンテナンスする・・・・という大事な側面があり、

文学はそういう民族の根源的な土台てきな性質がある。

だから英語圏の人間にとってシェイクスピアは生命線だし、

僕らにとって源氏物語とかはそういう意味合いをもってるんじゃないか・・・・

僕ら日本人(という言い方にチープなナショナリズム的な意図はないんだけれども)のもつ自我とか、じぶんがどこからきて今どうあるべきか・・・

といった際・・・たとえば「どう戦うか」

という命題に対して

「五輪書」なんかがわりとしっかりとした答えを出している。

ただ、五輪書っていうのはようは今のコンテクストでいえば

「人殺し」の「人の殺し方・殺されないための心得」

であって、まあツイッターでリアル炎上しそうな世界の話であり、でも今の「コンプライアンス」とか「チープな100均で売れ残ったようなポジティブ」の言語的・思考的制約のなかでこの本を読んでもおそらくなにも感じられないというか、

不感症の性行為のようなもので全く意味がない・・・ということになりかねない。

だから、そういう「ちょっとしたネガを拾って引っかかる」みたいな現代日本人の心の病みたいなのは、

「男がメスになる」

以上の意味はないのであって、それは現代の病理である。

だから、

「生きるとか死ぬとか」

「殺す、殺される」

という人間が生まれもって逃げられない命題みたいなものについて何一つ考えていない、

何一つ答えをもっていない・・・

っていうのは、やべー状態だし、

そういうやべー状態というのは、まさに、

「自己肯定感」

と連携しているトピックであって、

僕らが舗装された道路だとか、「無菌状態のコンクリートジャングル」「嘘だらけの世界」から少しでも自由なら、

この「自己肯定感」という単語で切り出された自意識の病理みたいなものは、おそらくはないんじゃないか・・・・

とも思うわけです。

「文学」は無駄、

という実践的すぎるようなスタンスというのはやはり貧し「すぎる」のであって、

それはどちらかというと致命的な貧しさだと思います。

人間が人間であること、

とか、(偏屈なナショナリスト的な意味ではなく)自分がアジア人であること、日本人であること(三島由紀夫的に言えばショーウィンドーに映った自分の姿が紛れもない黄色人種であること)

ということについての自意識・・・・的なところがないってことは、

すっからかんということなので、

「露悪」という単語の濫用は個人的にあまり好かないというか、

現代人弱いな・・・などと思うのでありました(坂口安吾を読め!!!!!)


以上

そんなかんじで。


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