Friday, November 5, 2021

漫画家は経験したことしか描けない、のか?

一時期SNSで拡散された

「漫画家は経験したことしか描けない」

とか

「漫画における実際の悪の描写は、漫画家の実経験以上のものはかけない」

的な投稿について、個人の考えを述べる。

結論から言うと、こういうものを安易に発信したり拡散したりする認知主体はどちらかといえば(言い方が悪く申し訳ないが)知的能力が低め、の層であると推察される。

ファクトと、それを裏付ける根拠(リファレンス)、そして証明のためのロジック、考えうる反証への一定の水準以上の反論(rebuttals)。

これらをすべてクリアしてはじめて人の発信は「ファクト」に近づく。

また、ファクトを導き出すためには統計的・定量的なデータも必要である。

仮にかつて漫画を描いていた(そしてある程度実績を出した)人間がこの説を主張しました、なら認める認めないかかわらず聞くに値するが、

多くのこの

「A=B!」

的な主張は

「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」「A=B!」

の反復であり提唱された命題への実証や、適正な対偶の収集とそれへの反証や・・・的な過程が一切抜けている。

もっとフラットに言えば

「決めつける・思い込む以外の知的体力のない頭の良くない人が呪術的に思い込みを反復している」

という事象があるだけである。

そして、より治安の良い場所で生きていくと言うことは、こういう「加害性のある知的弱者」とは関わらないで生きる、ということだ。

なにを言いたいかと言うと、

ポピュリズムがそういうものをハックしているからである。

「あいつは魔女だ」「あいつは魔女だ」「あいつは魔女だ」・・・

とただひたすら反復していく、また「あいつは魔女だ」を肯定するようなインフルエンサーの言説ばかりを集めていきより確証バイアスを強化する(フィルターバブル)

というように、

反復・強化によって人間の認知は(バグだらけのため、安易に)「カルト化」する。

そう言う意味ではいわゆる「学歴が高い」層でも状態として知的弱者になりうるし、

オウム真理教が事件を起こしていく過程はそうだった(上祐氏が水道橋博士との対談で述べている)

つまり、自分を相対化できない、

自分と異なる価値観や、自分と異なる主体をより

「知ろうとする」

探究心がない、

すると、善悪二元論というのは、

「自分が感情移入したアイデンティティ」と「自分が矮小化した藁人形」の二つで世界を思考することになる。

これが、いわゆるアメリカで「負け組」といわれている低所得の白人層から「ディープステイト」だとか、またトランプ支持が爆発的に広まった背景でもある、(橘玲氏「無理ゲー社会」)

なので、より複雑でなにか結論を導くためには相当な学習コストがかかる事象について、

藁人形バイアスで、

「A=B!」

的な評価をただ反復していく、というのは

「バカ」

の所業なのだ。

話を漫画家と実体験に戻すが、

- BL作家は全員同性愛sexの体験者なのか?

- 漫画家が実体験の範疇のみしかかけない、というデータはなにが根拠か?

- 手塚治虫にでてくる「悪の描写」はすべて本人が実体験したものか?(「ブッダ」で象を使って人を潰して殺したのも、本人の実体験?)

といったように、たった3つ反証を出しただけで

「終了!解散!」

となるレベルのきわめて稚拙な「思い込み」に過ぎないことがわかる。

漫画をかくとかキャラを作って「運用する」、お話を作る、というのは

「いかに作ったキャラ(という仮想マシン)を運用し、その人格やその心理的動き、生活、性格などをより解像度高くスケッチするか」

という「知的な作業」であり、そもそもお話を作る、というのはそういうことである。

自分が経験していないものについて、「決めつけ・思い込み」で補完するのはやはり賢い人間とはいえないし、どちらかというとその手の輩と交際するのはマイナスしかない(と個人的には思う)

そして、強調したいのは、

SNSで拡散されるもの(短文で縛られるツイートやフェイスブックの画像文字投稿など)が、

「よりファクトだから拡散されるわけ」ではなく、

「より刺激的だから拡散される」

ほうがより本質的だと思われるので、

おそらく「バカ」を使ったこの手のプロパガンダは永遠にさまざまな組織体(選挙前とか特に)によって使われると思われるし、

日本ではとくにディスカッションの教育がなされていない、というのはひとつ致命的なのかな、という所感である。(pros & consにわけれらない)。

いわゆる日本のサイバースペースでは「おじぎがああじゃない」とか「花の置き方がこうじゃない」みたいな重箱の隅を突くような揶揄、また、「いかに「国語」をハックして相手を傷つけてやろうか」に特化したような揶揄ばかりのいわゆる「底辺層」の(わりと匿名寄りの)発信が目立ち、

そういうものをいかに排除するかが、今後の日本の法整備としては課題だろう、と思われる(木村花さんの事件を絶対に忘れてはいけない)。

「発信する価値のある主体」と「発信する価値の低い主体(ガセ・虚言癖・等)」があるとすれば、後者は排除されるべきで、この距離感があいまいになってきている、豚小屋の住人が帝国ホテルの最上階にボールを投げられてしまっている、という「距離感の欠如」が今のサイバースペース最大の課題、といえよう。(これは小室圭さん問題を含む。「引き摺り下ろせ!」的なマインドセット)

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