Saturday, November 27, 2021

自己肯定感について

 https://www.youtube.com/watch?v=XKscrDKL4II

アベプラで見ていて、個人的に「自己肯定感」についてだらだらと書いてみる。

日本人という一つの民族として括った時(言語文化的な括りのほうがより解像度が高いと思うが)、僕ら日本人の自己肯定感の一般的な「低さ」というのは、

(1) 地理的な制約

(2) 教育

(3) 宗教の喪失

(4) 過度に社会が整いすぎたこと

という4つのベクトルから考えなければいけないんじゃないか、と思っている。

地理的な制約、というのは、結局僕らは狭い列島の土地に縛られていて、これは言語をしゃべる総数としても縛られている。

この制約によって僕らはいわゆる過度な外れ値(outlier)を許容されない。つまり本質的に我々日本人は多様性とは対極の彼岸にいて、この

「こうあるべきである。こうでなければ、お前は死ぬ」

という一つの共通合意としての思想というか「呪術的信仰」の一つの表象された形が

「普通」

なんだと思う。僕らは過度な外れ値になることについていつも「社会的制裁」をうける風土にいたし、これからもこれは変わらないんだと思う。

吉本隆明が柳田國男から読み解いたように、

我々日本人が考えた「死」のあり方というのは空間的なかたちをとるのであって、その代表例が「姨捨山」なわけだけど、

共同体から地理的に排除することで共同体にとって「有害」とみなされた個体に「死」という記号を与えた、ということなんだと思う。

僕らは結局これまで社会が連綿と受け継いできたこういった共通合意だったり「共同幻想」の延長線上でしか生きられないわけだから、

まあ必然的に「自己肯定感」は落ちるし、そういうもんだわな・・・と思うのである。

二番目に、教育について。僕らの家庭内での標準的な・・・また、教育の場で受ける一般的な教育信仰というのも、この「標準から外れるな」という強い信念のもとに立っている。

そして、軍隊などの教育がそうであるように、まるで工場で作られるラジオのような、ほぼ差分のない同一の個体(=汎用個体)を作ることが我が国の国是であったわけだ。

だから、

「ルールに従え。はみ出んなよ」

「変わったことするお前は、おかしいやつだ」

という形のマネジメントが、教育・職場・その他のあらゆる場所で徹底されている。

日本の一般的伝統的な企業組織では、たとえばエンジニアに飛び込み営業させるような知能のよろしくない人が力をもっているようなところがはいて捨てるほどあって、

つまりはスペシャリストとか尖った人間をパーツとして組み合わせて全体としての機動力を上げるのではなく、

おんなじ形の、

ほぼ代わり映えのしない大量生産のラジオをいっぱい並べて、一つの個体にほぼ全部の分野の作業を割り当てて・・・・という

「オールラウンド」

なアウトプットを求める傾向が強い。

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これは部分最適ではなく、より「個性」を「犯罪」へと疎外していく行為なので、まあ自己肯定感が上がるわけが、ないのだ。

(福原愛に倉庫のピッキングさせて小さなミスをみつけて怒鳴り散らす・・・的な?)

そして、この負の連鎖の温床である日本のマスプロ教育自体が、もはや限界にきており・・・この点では日本は香港の教育とかを見習ったほうがいいんじゃないかと思ったりする。

次に、(3)宗教の喪失である。

これは別に宗教を推進する意図ではなく、ただ、宗教というのは(これは老人の繰り言みたいで申し訳ないが)フォイエルバッハが述べたように、

「個人の自己イメージを拡張していくものである」

これは、ナショナリズムだとか、共産主義だとか、なんでも結局本質はおんなじで、

多くの人間は、私を含め凡庸でつまらない劣った存在(謙遜ですよ。マウントしないでね)である・・・・

ただ、この凡庸でつまらなく劣った存在であることを認めてしまったら自己価値感を維持することができず、これは精神衛生上もよくないので、

この「本来すっげー自分」像を神に求める。

だから、本当に自分はコンプレックスだらけだけど、「神」を通じ、「神」と同化することによって自分を超越的なところまでもっていける。

宗教のもつ(各宗教のもつ)作用を列挙すると

1. 自己イメージの拡張・補完(神になれる)

2. 福祉的な恩恵

3. 帰属意識を充足させる(コミュニティの提供)

4. ネガティヴな実存的恐怖からの解放

ということになると思う。ここでは深くは述べないが、宗教というのはつまるところ

「何者でもないつまらない自分を、何者かにさせてくれる」

抽象概念であり共通合意である・・・・という一面をもっている。

そのため、SNSで流行ったディープステイトだとか、近年中高年の間で流行っている、チープな「ナショナリズム」といった類のものは、この

「俺すげー!」

を与えてくれるための「俺たちすげー!」共同幻想である。

もちろん、この「俺たち」の時価総額を維持したり上げることに、だいたいこの「俺すげー!」たちは事実上貢献していないのもよくある例である。(消費と貢献は全く対蹠的である)

学生運動の時代は、「全共闘」だとか「マルクス主義」だとか、やっぱり全員が「かぶれることのできる」イデオロギーがあった。

が、しかし今はより価値の多様化が進んでいくなかで、(宗教の緩和してくれる)「死への恐怖」だとか、

「死」そのもののリアリティ

みたいなものがなくなっていて、すべてが抽象化されており、すべてがあいまいで清潔である。

この「清潔」さ、そして「イデオロギーや宗教の喪失」が、

個々の若者にとって「自分とは何者か」「自分はなぜ生きているのか」

という答えを見失わせている、という意味では、近現代社会のもつ副作用・・・・としての側面もあるんじゃないか・・・というふうにおもうのである。

(4) 最後に過度に社会が整いすぎたことで、結局法治国家とかコンプライアンスの徹底した世界というのは「暴力がより薄まった世界である」

自己肯定感というのは、やさしいNPOの炊き出してくれる粥ではない。

自己肯定感というのは、自己価値感であり、自己の尊厳・名誉である。

そして、法治社会が徹底したことで、僕たちは「名誉を奪われることの代償は死」という、きわめて歴史の長い、そしてより原始的で自然に近い感性を忘却することに成功した。

そもそもなぜ礼儀が存在するのか?

なぜ敬語が存在するのか?

それは、人間の本質が「殺し合い・命の奪い合い」という無視のできない側面を持っているからに他ならない。

「自己が肯定されない」ということは、そしてその状態が続く・・・ということは、長期的な何かしらのゲインが確約されている(それは軍隊とか、ヤクザ組織とか)のでないかぎり、ただの「害」であり「マイナス」なのだ・・・ということ、

そして、「名誉を奪われる」という究極の成れの果ては

「命の奪い合い」

だということ、これを一生懸命、(特に)日本人は5分で警察官がきてくれる共通合意のもとに忘却をした。

昨今の「ジョーカー」の件にしても、こうした鬱屈した社会の歪み・・・・のようなものが、コロナを通じてより炙り出された・・・・ということ。

なので、

「やべえ!こいつやべえ!」

というだけの反応は・・・おそらく時事の捉え方としてはあまり賢明ではないというか、

やはり全体的にそういうことなんだと思います。

とくに先進国に住む我々は、フィジカルな死とか暴力みたいなものが身近にないわけです。

とくに昨今は、暴対法でヤクザもそう見かけない。

でも、「暴力」は本質として実存としてげに存在しているということ。

そして、自分は今、奇跡的に生かされている。

ハイデガーが言っていたように、「死」という闇を通じてしか「生」の光は認知できなくて、それは太陽光のしたでスマホの画面をみるようなもので、

「自己肯定感」

というのは、こういった「メリハリのない」世界で「自然としての人間」「動物としての人間」としての感覚を忘却してしまった人間そのもののもつ

現代の病気なんじゃないかと思うわけです。

であるからして、

「自己肯定感」だとか、

「自己価値」みたいなものは、

結局自分で勝ち取るしかない、

それを、口を開けていれば優しいボランティアが恵んでくれるんじゃないか、

とか、社会や福祉でそれがどうにかなる・・・・

というのは(一部の特殊なコンテクストを除いて)ないと思うわけです。

例えば、この自己肯定感問題がドナルド・トランプの父親的なソシオパスとの避け得ない恒常的な接触によるものならば、

(誤解を恐れず言えば)

「倒すか」「逃げるか」

しかない。

と個人的には思います。

まあでも私のみている世界もだいぶ歪んではいるので、片耳できいてください・・・・


そんなかんじで。

漫画描いてます

https://sugano.works/

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