漫画、作曲、ラップ、プログラミングをやっています。I am Keita Roimo: Manga Artist, Musician, Rapper, Software Engineer.
Sunday, November 28, 2021
Saturday, November 27, 2021
【陰謀論】「バイトで生活費と学費を稼いだ」なぜ次々に怪しい風水や自己啓発などにハマる?親子関係を分断する危機をどう乗り越えるべき?|#アベプラ《...
露悪について
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「露悪」という単語は、おそらくは現代を語る上では重要なキーワードだと思っている。
というのは、おそらくはそれをもう少し精度を高く翻訳してあげると、「露出された悪」・・・もう少し踏み込めば「露出された悪への明確な拒絶」をコンテクストとした社会のことだからである。
現代はコンプライアンスの時代だ。
めちゃイケのようなコンテンツも今では作れなくなったし、テレビは視聴者からのクレームで尖った番組が作れなくなった。
90年代に通用していたようなブラックなコンテンツはもはやそれは通りに存在してはならないもの、排斥するべきもの・・・という風潮になって、それが当たり前になった。
この、「ちょっとした悪でも露出されることについて過剰な嫌悪感、拒絶反応をもつ」
という大衆心理は、まるでホームレスを排除した街のように、
綺麗な景観であり、それゆえに「無菌」であり、
「無菌とは脆弱さのことである」
という所感しか個人的には感じえない。
これは別に日本が・・・というよりも全世界的な動きのようにも見え、
「きれいなものしかみとめない」
という完璧主義・・・というか、
でもそれはある意味では人間の持つ実存とか本質から目を背ける、
「実際にそこにある人間の本質」を「恰も無いように」
きれいな「体裁」だけを繕う人間を量産する行為だ、ということ(まるで一部の女子中学生がこぞってアフリカの子供に手を差し伸べたい作文を書くように!!!!)
そして、それはもう少し踏み込めば
「弱いオスを量産する、ということ」
のような気がしていて個人的には首を傾げざるをえない。
もちろん、これはあくまでも僕の切り取った世界だから、本当の世界と完全にマッチする・・・などという倨傲はないけれど、
ただ、個人的にそう考えている。
バイ菌のない完璧な状態・・・・という先進国の到達した世界は、
例えば一昔前の、アタックナンバーワンで痛風を患ってしまう梢とは対蹠的なもので、
それはより抗体がすくない世界である。
抗体がすくない・・・ということは、ある日突然自分の目の前に現れた究極の状態、
それは、たとえば「ケネディの暗殺」なんかのような、
「俺」と「お前」の1:1の暴力なんかで、
もうどうしようもなくてひっくりかえってしまうような、
そういう個体を量産するってことで、これは国力の観点からもいいとはいえない。
日本は、特に日本はここについての物理的な・肉的な感覚を完全に喪失したような感じがある。
若い綺麗な女の子がいわゆるヤンチャな男に惚れるのは、
この、ぼくら文明社会の中間層の人間が完全に忘れてしまった「野生」の残香を、この不良の坊やたちに求めるからじゃないのか・・・という気がしている。
暴力とは本来(それは動物の世界では)単純で一直線なものである。
単純で一直線なものであるがゆえに、それは例えば人間関係の究極の状態であり、それは人間の実存の外すことのできない一つのピースである。
これを社会から完全に排除した。
動物を屠る過程に、もう僕らは参加しない。
コロナという大きな暴力は確かに僕らを蝕んだが、
それでも僕らのなかで「肉体」というのは僕らを離れたところに存在している、
その違和感、
すなわち人間がより自然と乖離した情報社会の中でぼくらは生きているということ。
「露悪」というのは人間のもつ「悪」をスケッチする行為であり、
そういう表現自体に嫌悪感を覚えるっていうのは動物としては脆弱なのかな、という感想というか、
じゃあ「きれいなものを身に纏ってにっこりほくそ笑んでいるような人間が自然淘汰で残るのか?」
とかいろいろな疑問が湧いてくる。
ちょっとロジックをだいぶはずした文章になってしまったが、
僕は日本語自体がだいぶ昔に比べて劣化したと思っていて、
この劣化した日本語(さらには古文や漢文すら義務教育に無駄だよね、と叫ばれる昨今)で、この言語の制約のなかで僕らはときに歴史から「寸断」される、
この経験というか、種としての時空からの孤立というものが
僕らの精神に負の影響を与えているのではないか・・・・とも思うのである。
日本語は確かに劣化した。
劣化した言語表現の制約の中で僕らが認識できる世界の範囲はあくまでも限られてくるから、
なので文学っていうのは、
ぼくらの言語の土台を守るというか、
メンテナンスする・・・・という大事な側面があり、
文学はそういう民族の根源的な土台てきな性質がある。
だから英語圏の人間にとってシェイクスピアは生命線だし、
僕らにとって源氏物語とかはそういう意味合いをもってるんじゃないか・・・・
僕ら日本人(という言い方にチープなナショナリズム的な意図はないんだけれども)のもつ自我とか、じぶんがどこからきて今どうあるべきか・・・
といった際・・・たとえば「どう戦うか」
という命題に対して
「五輪書」なんかがわりとしっかりとした答えを出している。
ただ、五輪書っていうのはようは今のコンテクストでいえば
「人殺し」の「人の殺し方・殺されないための心得」
であって、まあツイッターでリアル炎上しそうな世界の話であり、でも今の「コンプライアンス」とか「チープな100均で売れ残ったようなポジティブ」の言語的・思考的制約のなかでこの本を読んでもおそらくなにも感じられないというか、
不感症の性行為のようなもので全く意味がない・・・ということになりかねない。
だから、そういう「ちょっとしたネガを拾って引っかかる」みたいな現代日本人の心の病みたいなのは、
「男がメスになる」
以上の意味はないのであって、それは現代の病理である。
だから、
「生きるとか死ぬとか」
「殺す、殺される」
という人間が生まれもって逃げられない命題みたいなものについて何一つ考えていない、
何一つ答えをもっていない・・・
っていうのは、やべー状態だし、
そういうやべー状態というのは、まさに、
「自己肯定感」
と連携しているトピックであって、
僕らが舗装された道路だとか、「無菌状態のコンクリートジャングル」「嘘だらけの世界」から少しでも自由なら、
この「自己肯定感」という単語で切り出された自意識の病理みたいなものは、おそらくはないんじゃないか・・・・
とも思うわけです。
「文学」は無駄、
という実践的すぎるようなスタンスというのはやはり貧し「すぎる」のであって、
それはどちらかというと致命的な貧しさだと思います。
人間が人間であること、
とか、(偏屈なナショナリスト的な意味ではなく)自分がアジア人であること、日本人であること(三島由紀夫的に言えばショーウィンドーに映った自分の姿が紛れもない黄色人種であること)
ということについての自意識・・・・的なところがないってことは、
すっからかんということなので、
「露悪」という単語の濫用は個人的にあまり好かないというか、
現代人弱いな・・・などと思うのでありました(坂口安吾を読め!!!!!)
以上
そんなかんじで。
会社やってます↓
自己肯定感について
https://www.youtube.com/watch?v=XKscrDKL4II
アベプラで見ていて、個人的に「自己肯定感」についてだらだらと書いてみる。
日本人という一つの民族として括った時(言語文化的な括りのほうがより解像度が高いと思うが)、僕ら日本人の自己肯定感の一般的な「低さ」というのは、
(1) 地理的な制約
(2) 教育
(3) 宗教の喪失
(4) 過度に社会が整いすぎたこと
という4つのベクトルから考えなければいけないんじゃないか、と思っている。
地理的な制約、というのは、結局僕らは狭い列島の土地に縛られていて、これは言語をしゃべる総数としても縛られている。
この制約によって僕らはいわゆる過度な外れ値(outlier)を許容されない。つまり本質的に我々日本人は多様性とは対極の彼岸にいて、この
「こうあるべきである。こうでなければ、お前は死ぬ」
という一つの共通合意としての思想というか「呪術的信仰」の一つの表象された形が
「普通」
なんだと思う。僕らは過度な外れ値になることについていつも「社会的制裁」をうける風土にいたし、これからもこれは変わらないんだと思う。
吉本隆明が柳田國男から読み解いたように、
我々日本人が考えた「死」のあり方というのは空間的なかたちをとるのであって、その代表例が「姨捨山」なわけだけど、
共同体から地理的に排除することで共同体にとって「有害」とみなされた個体に「死」という記号を与えた、ということなんだと思う。
僕らは結局これまで社会が連綿と受け継いできたこういった共通合意だったり「共同幻想」の延長線上でしか生きられないわけだから、
まあ必然的に「自己肯定感」は落ちるし、そういうもんだわな・・・と思うのである。
二番目に、教育について。僕らの家庭内での標準的な・・・また、教育の場で受ける一般的な教育信仰というのも、この「標準から外れるな」という強い信念のもとに立っている。
そして、軍隊などの教育がそうであるように、まるで工場で作られるラジオのような、ほぼ差分のない同一の個体(=汎用個体)を作ることが我が国の国是であったわけだ。
だから、
「ルールに従え。はみ出んなよ」
「変わったことするお前は、おかしいやつだ」
という形のマネジメントが、教育・職場・その他のあらゆる場所で徹底されている。
日本の一般的伝統的な企業組織では、たとえばエンジニアに飛び込み営業させるような知能のよろしくない人が力をもっているようなところがはいて捨てるほどあって、
つまりはスペシャリストとか尖った人間をパーツとして組み合わせて全体としての機動力を上げるのではなく、
おんなじ形の、
ほぼ代わり映えのしない大量生産のラジオをいっぱい並べて、一つの個体にほぼ全部の分野の作業を割り当てて・・・・という
「オールラウンド」
なアウトプットを求める傾向が強い。
これは部分最適ではなく、より「個性」を「犯罪」へと疎外していく行為なので、まあ自己肯定感が上がるわけが、ないのだ。
(福原愛に倉庫のピッキングさせて小さなミスをみつけて怒鳴り散らす・・・的な?)
そして、この負の連鎖の温床である日本のマスプロ教育自体が、もはや限界にきており・・・この点では日本は香港の教育とかを見習ったほうがいいんじゃないかと思ったりする。
次に、(3)宗教の喪失である。
これは別に宗教を推進する意図ではなく、ただ、宗教というのは(これは老人の繰り言みたいで申し訳ないが)フォイエルバッハが述べたように、
「個人の自己イメージを拡張していくものである」
これは、ナショナリズムだとか、共産主義だとか、なんでも結局本質はおんなじで、
多くの人間は、私を含め凡庸でつまらない劣った存在(謙遜ですよ。マウントしないでね)である・・・・
ただ、この凡庸でつまらなく劣った存在であることを認めてしまったら自己価値感を維持することができず、これは精神衛生上もよくないので、
この「本来すっげー自分」像を神に求める。
だから、本当に自分はコンプレックスだらけだけど、「神」を通じ、「神」と同化することによって自分を超越的なところまでもっていける。
宗教のもつ(各宗教のもつ)作用を列挙すると
1. 自己イメージの拡張・補完(神になれる)
2. 福祉的な恩恵
3. 帰属意識を充足させる(コミュニティの提供)
4. ネガティヴな実存的恐怖からの解放
ということになると思う。ここでは深くは述べないが、宗教というのはつまるところ
「何者でもないつまらない自分を、何者かにさせてくれる」
抽象概念であり共通合意である・・・・という一面をもっている。
そのため、SNSで流行ったディープステイトだとか、近年中高年の間で流行っている、チープな「ナショナリズム」といった類のものは、この
「俺すげー!」
を与えてくれるための「俺たちすげー!」共同幻想である。
もちろん、この「俺たち」の時価総額を維持したり上げることに、だいたいこの「俺すげー!」たちは事実上貢献していないのもよくある例である。(消費と貢献は全く対蹠的である)
学生運動の時代は、「全共闘」だとか「マルクス主義」だとか、やっぱり全員が「かぶれることのできる」イデオロギーがあった。
が、しかし今はより価値の多様化が進んでいくなかで、(宗教の緩和してくれる)「死への恐怖」だとか、
「死」そのもののリアリティ
みたいなものがなくなっていて、すべてが抽象化されており、すべてがあいまいで清潔である。
この「清潔」さ、そして「イデオロギーや宗教の喪失」が、
個々の若者にとって「自分とは何者か」「自分はなぜ生きているのか」
という答えを見失わせている、という意味では、近現代社会のもつ副作用・・・・としての側面もあるんじゃないか・・・というふうにおもうのである。
(4) 最後に過度に社会が整いすぎたことで、結局法治国家とかコンプライアンスの徹底した世界というのは「暴力がより薄まった世界である」。
自己肯定感というのは、やさしいNPOの炊き出してくれる粥ではない。
自己肯定感というのは、自己価値感であり、自己の尊厳・名誉である。
そして、法治社会が徹底したことで、僕たちは「名誉を奪われることの代償は死」という、きわめて歴史の長い、そしてより原始的で自然に近い感性を忘却することに成功した。
そもそもなぜ礼儀が存在するのか?
なぜ敬語が存在するのか?
それは、人間の本質が「殺し合い・命の奪い合い」という無視のできない側面を持っているからに他ならない。
「自己が肯定されない」ということは、そしてその状態が続く・・・ということは、長期的な何かしらのゲインが確約されている(それは軍隊とか、ヤクザ組織とか)のでないかぎり、ただの「害」であり「マイナス」なのだ・・・ということ、
そして、「名誉を奪われる」という究極の成れの果ては
「命の奪い合い」
だということ、これを一生懸命、(特に)日本人は5分で警察官がきてくれる共通合意のもとに忘却をした。
昨今の「ジョーカー」の件にしても、こうした鬱屈した社会の歪み・・・・のようなものが、コロナを通じてより炙り出された・・・・ということ。
なので、
「やべえ!こいつやべえ!」
というだけの反応は・・・おそらく時事の捉え方としてはあまり賢明ではないというか、
やはり全体的にそういうことなんだと思います。
とくに先進国に住む我々は、フィジカルな死とか暴力みたいなものが身近にないわけです。
とくに昨今は、暴対法でヤクザもそう見かけない。
でも、「暴力」は本質として実存としてげに存在しているということ。
そして、自分は今、奇跡的に生かされている。
ハイデガーが言っていたように、「死」という闇を通じてしか「生」の光は認知できなくて、それは太陽光のしたでスマホの画面をみるようなもので、
「自己肯定感」
というのは、こういった「メリハリのない」世界で「自然としての人間」「動物としての人間」としての感覚を忘却してしまった人間そのもののもつ
現代の病気なんじゃないかと思うわけです。
であるからして、
「自己肯定感」だとか、
「自己価値」みたいなものは、
結局自分で勝ち取るしかない、
それを、口を開けていれば優しいボランティアが恵んでくれるんじゃないか、
とか、社会や福祉でそれがどうにかなる・・・・
というのは(一部の特殊なコンテクストを除いて)ないと思うわけです。
例えば、この自己肯定感問題がドナルド・トランプの父親的なソシオパスとの避け得ない恒常的な接触によるものならば、
(誤解を恐れず言えば)
「倒すか」「逃げるか」
しかない。
と個人的には思います。
まあでも私のみている世界もだいぶ歪んではいるので、片耳できいてください・・・・
そんなかんじで。
漫画描いてます