※この作品はフィクションです
千葉県郊外に小さな町があり、コンビニにも車を使わないといけないような辺鄙な場所であった。猪俣浩子は高校3年で受験を控えていた。兄は受験に失敗して浪人を志しており、成績優秀な浩子に多少のわだかまりを感じてはいたが、自身をメタ認知し内省の力の強かった彼は表立ってその微かな、しかし根深い憎悪をみせることはなかった。
浩子はいわゆる美人であった。美人という定義はおそらくは、何かしらの標準偏差を表す概念であって、きわめて主観的なものである。例えば、女性のいう美人ほど当てにならないものはないし、時代によって美人も多少は変わる(オードリー·ヘップバーンなどは違うけれど)。浩子の顔はいわゆる目の大きく切れ長で、小さいが精巧なガラス細工のように間違いのない、控えめな鼻梁と薄くて意地悪な口。そしてその一見無特徴で、近所のクソガキに一人はいそうな、つまりアジア男児っぽい泥臭い整った顔が、女性として血が通い若いエネルギーが満ち満ちてはち切れそうなその感じに、悪魔的な美しさを感じるのであった。
それは美であったが、美であると同時にリビドーを強烈に刺激する意地の悪い「耽美さ」であり、10代というプラットフォームに後押しされて、街ゆく男性に煩悩を植え付けるのであった。
「そういうわけで」
浩子は食べかけのじゃがりこのカップの淵に人差し指をあてがい、目を細めて兄に囁いた。
「私東大めざすから」
事実、浩子は異常に優秀であった。5教科はほぼ満点で、体育も外さなかった。このパーフェクトな女子は、趣味もパーフェクトであった。彼女は日本拳法をやっていた。
日本拳法は日本古来の総合格闘技と呼ばれている。入門する際に浩子は心得のような冊子を渡された。そこにはこう書いてあった。
「日本の繁栄に貢献し、世界の繁栄に貢献すること」
後者は建前、前者は本音だろうと彼女は思ったけれども、そういうことはわりとどうでもよかった。彼女は自身の生まれ育った国家を、まるで家族のように愛していた。それは多少は排外的な感情(これは両親の影響もあったが)に加え、彼女は優秀であるがゆえに日本の文化歴史に親しむようになっていた。
だが、これもまた、彼女にとっては建前の理由であった。本当は彼女自身が、自身の弱さを克服したかったという動機性が一番強かったのだ!
なぜか?
おそらく人はこのような疑問を問うであろう、
「なぜ一輪の美しい花が力を持つようになるのか?」
これは薔薇の心理である。弱く美しい彼女のような存在には、「存在しているだけでかかる」大きな負荷が存在した。
周りの人間の目や態度。
男性の多くから、彼女は事実愛された。まるでお姫様のように、多くの男が彼女にかしずいた。
だが、それはあくまでも華やかな一面である。
美しくない女。
ちょっとだけ美しい女。
自我の強い、古い女。
女を見下したい男。
多くの場合、彼女の「存在そのもの」が、彼女以外の多くの人間にとって脅威となった。
彼女自身は何一つ作用を起こしていないのに、自動的に多くの悪意·敵意·憎悪が向けられる。
「こいつよりも上になりたい」
「なにか理由を作ってこいつをこきおろしてやろう」
多くの場合、彼女は静かで外野から判別しにくいイジメの格好の標的となった。
彼女には力が必要であった。
それは他者を屈服させる力ではない。
他者を屈服させるには、日本語を上手に操り、うまく相手を貶め、自分が優位になる、というそういうゴミのような技術にいかに固執するかに(この法治国家においては)かかっているが、
肉体的な力は、「自分自身の克服」であった。
基本的な型の練習を1000回も、10000回も繰り返す。
前拳。そして後拳。
前拳は、ボクシングでいうとジャブに該当するが、下半身がボクシングと大きくその思想を異にしていた。
日本拳法では古武術の足の動きを用いるので、前拳は腰をひねって後ろ足を開く。この際に首や体の軸が動いてはならない。
後ろ拳も基本的に体の軸を中心として180度体を動かし、この際後ろ足の親指にちかい腹を中心に足から胴体、と回転させる。
この際に、腕を意識してはならない。
ボクシングのワンツーがシンプルでありかつ難易度が高い、重要性の高い技術であるのは、この「腕を使わない」パンチが一番速く効果的であることによる。
パンチのときに腕を意識しない。
拳に力は入れない。
拳は当てる瞬間に握るが、握り方も手首をおってはいけないので全てを一直線上にする。
その地味な反復のあとに、空乱をやるときもあるが、総重量10kgある防具をつけて、乱取りを行うのであった。
日本拳法は防具をつけるから打たれ弱い、などという詭弁が流布されているが、
10kgつけてフォークダンスのように次々と(各1分)乱取りをやるというのは相当大変なことである。
女の浩子はなおさら、初めは息が持たない。
やりはじめ、はじめて1:1の試合を許してもらえた時、試合のあとにとうとう耐え切れなくなって地面に転がった彼女に師匠からの厳しい怒涛の一声があった。
「そこ!寝ない!」
武道は「強さを誇示する」営みではない。
武道は「強くなる」営みであり、それは生活の中に組み込まれる「思想」のようなもので、武道を身につけると体に対する考え方、体の思想が変わってくる。
自分に対しての「錯覚でない」自信がそなわったとき、彼女は治安の悪い夜道も歩けるようになった。
あるとき、酔っ払いに絡まれ、掴まれそうになったことがある。
その際も、一瞬で彼女の脳幹は、彼女に何をすべきかを教え、受けによって酔っ払いの試みは失敗に終わった。
ただ、この強さは、さらに、彼女の周りの「弱い雄」たちの警戒心を引き出すことになる。
弱い雄が、自分に対して、「自分が自分である」という理由によってマウントをとってくる、という事象に対し、
「こいつ、強制終了させてぇ....」
と強く憎悪と殺意を感じるようになったが、
それを克服し、自分自身を制御すること、それが、「武」の本質なのであった。
そして、その強さは、その自己制御の力は、
学業にも生かされることになる。
そして、彼女はもうすぐ、受験に臨む。
がんばれ浩子!
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