漫画、作曲、ラップ、プログラミングをやっています。I am Keita Roimo: Manga Artist, Musician, Rapper, Software Engineer.
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Sunday, October 23, 2022
ゲイとギャグについて
ここについて、少し個人的な見解を述べておきたい。
ゲイというものが・・・昔からある意味では嘲笑の対象として「ギャグ」とされてきたということがまずあると思っていて、
それはエミネムのラップの歌詞でもそうだし、保毛尾田保毛男もそうだと思う。
この問題について、2通りの解釈というか見方ができ、
(1)またリベラルとか左が「ガタガタ」言ってるよ。という見方と
(2)いや、マジョリティの差別と暴力の正当化だろ。という味方である。
まず前者について、よく戯画化されやすいがLGBTやその他に派生する「ポリコレ political correctness」というものが所謂「ノイズ」「クレーム」「ノイジーマイノリティ」として映る・揶揄されるということがあると思う。
例えば自由な表現としての漫画媒体がポリコレで殴られる・・・・その場合に、それが果たして [1] 当事者の逼迫した被害実情にリンクするものなのか [2] ファッションや空想としての批判なのか・・・といった問題である。
小人プロレスのクレームをつけたのが「小人症」と一切関わりのない「自分を救済者と錯覚したい主体のナルシシズムの発露」としてのクレームであったように、「LGBTに寄り添う自分」に酔いたい主体による大きな声・・・である場合はそれはある意味LGBT自体の正当な活動自体の評価にも悪影響を与えうる。
ただ、もう一つの見方として
マジョリティの差別や暴力の正当化だろう
というものである。
つまり、結局保守を自認する個人がマイノリティ・・・例えば「LGBT」を「あいつらは***だ!」と規定するとき、
それは「既得権益」にいる(しかもそれは本人の素質や実力・努力とは一切関係ない)主体が一度も「マイノリティ」になったことのない・・・ゆえに不利益や迫害も被ったこともない・・・いわゆるマリー・アントワネット現象である。
「差別されるマイノリティ」という事実がいかに壮絶か・・・ということはマイノリティ当事者やその近接した関係者にしか一人称として理解し得ないが、
これをクレヨンで塗りつぶすように「あいつらは***だ!」という、非常に不勉強で、無知で、傲慢で、無想像な「単純化」「悪魔化」が横行する。
そして・・・・おそらくは、人類の歴史の中で大部分はこの「既得権益マジョリティ」「クレヨンで塗りつぶすマジョリティ」が圧倒的に強かった。
「女はでしゃばるな」「黒人は劣った奴隷だ」
こういったことは当たり前のように人口に膾炙され、たれも疑う余地がなかった。
そしていまだに、中東では女性への悲惨なリンチが相次いでいる。
ただ、「マジョリティ」は「ソファでポテトを頬張りながら」
「どうせ売女が警察を怒らせて・・・そう、犯罪をやったんだろ?」
という「脳内変換」を「アプリオリ」に行う。
この、「裁く対象をほぼ理解するコストを払っていないにもかかわらず」「裁く対象をアプリオリに****だ!と断定する」脳の仕組みが、
マジョリティの「一側面」であるとすれば、
それと戦うマイノリティ・・・という姿は、きわめて自然に思われる。
だから、
あるステレオタイプの下で「ゲイである当事者」がとてつもなく屈辱を強いられる・・・・のであれば、それはやはり看過してはならないだろう、
もしマジョリティがそれにノイジーマイノリティの烙印を押したとしても、かれは「自身が侮辱されない権利」を勝ち取るべきだろう・・・
「それが民主主義国家だろう・・・」
という言い方もできる。
むろん、マイノリティであるからすべての主張が妥当ではなく、統一教会やまた外国の情報戦といったものも絡んでいて一枚岩ではないが、
それでも「マイノリティ」を圧殺するだけの倫理的正当性をマジョリティが持っている・・・とはならないだろう・・・というのが個人的な見立てだ。
一方で、「ホモセクシャル」と「ギャグ」のリンクを許して欲しい・・・と思う側面もあって、
それは例えば真夏の夜の淫夢とか「ホモガキ」的なサブカルチャーであって、
そういう「おかしさ」については、それが「ゲイそのものへの嘲笑」とはどちらかというと「棲み分け」されていて、
それはビリー・ヘリントンが日本で大歓迎されたように・・・
そういう「meme」としての「ゲイ」については許して欲しい・・・というか、
つまりその線引きというか、
笑いの対象として定義することの・・・どこまでが暴力であり、どこまでが許容されるべきか、
そういうことについてはもっと踏み込んだ議論がされるべきなような気がする。
なんでもかんでも表現をクレームの対象にしたり、
「漫画の表現が現実世界に逆流する」といったグロテスクな議論はナンセンスだとは思うが、
やはりどこまではよくて、どこまではゾーニングで、どこまではちょっとだめなのか、
そこについての倫理的な価値体型というのは、そもそも教育勅語や国体思想を(事実上)捨てた日本の市井には「無いvoid」と考えるのがどちらかというと正解で、
「物自体=絶対的だと言いうる価値体型が事実上欠損している」
にもかかわらず「村社会の」「相互監視」のもとに個人の「行為としての善」が保たれている・・・という側面もあることを考えると、
「この表現はけしからん!」
ということを無宗教の俳優?がツイートするのはちょっと頭悪いかな、と思いました。
とりあえず三島由紀夫大好きです、私個人はゲイに偏見はございません。(でも淫夢はうける)
以上。
巨乳について
コミックやアニメの中で・・・月曜日のたわわ騒動でも取り上げられたが、いわゆる
女性の「巨乳」への、男性の過度な執着
という問題があった。そして、これは「性的消費」「女性の物体化」という揶揄も受けたし、またそれに対してのカウンターの批判もあった。
ここについて・・・特に「コミック」すなわち二次元の「巨乳」について、おそらく大きな誤解があると思う。つまり「ギャップ」である。
オタク文化・萌え文化の中で「異性=女性」というのは大きく二極化される傾向がある。それは、
「巨乳」と「小児性愛」
である。
後者は「ロリ」や「メスガキ」などというジャンルとして扱われている。
前者は、執拗なまでの女性の「巨乳化」をその特徴とする。
なぜ彼らオタクがそこまでに「ロリ」や「巨乳」に固執・執着するのか?
その答えは、
彼らの異性へのコンプレクス(劣等感)
にあると考える。
これはあくまで私の観察してきた範囲で個人的統計的な(heuristics)結論
ではあるが、彼らが漫画のなかで女性を「物体化(Objectify)」するのは、
彼らが「性」へのコンプレクスを持っているからである。(もちろん一般にも巨乳フェチは一定の割合でいるものの、オタクの巨乳への執着はそれとは少し意味合いが異なるのではないかと思われる)
異性に惹かれる・・・ということは元来審美的なものであり、どのような未熟さや失敗がそこにあったとしても一定の対人格的なイベントであるから、
「女」
というものの「像 figure」はもっと解像度が高いし、情報量が多い。
相手は自分の思い通りにはならないし、だからこそ葛藤とか失敗や泥臭いあれやこれやがあり、そうやって人は成長していく。
多くオタクはその過程に参加できなかったものである。
若い日に性的に抑圧され、異性の像が「歪んだ」、
その結果として異性は「物体化」される。
すなわち「物体化される異性像」とはかれの「女性経験のなさ」が産んだ副作用と言える。
小児性愛についても・・・これは私自身そういった類の人に接触したことがあまり(何人か会ったことはあるが、そこまで絡んだことはない)なく、想像にはなるが・・・ただ宮崎勤などのケースをみても、
「女に相手にされない」
「女が恐怖の対象である」
そこから、必然的に「自分をジャッジしない白紙状態の小児」に行く・・・という、どちらかというと性癖よりも「心理的」「コンプレクス」が強い要因となってそこにいきつく・・・・
のではないかと推測される。
なので、巨乳や小児性愛への異常なまでの執着が「二次元」にとくに強く見られるのは、
「女を知らない」男たちが「女」を(強い動機性で)表現している
無論、彼らの全てが童貞であるとは限らないし、純粋にマーケットを意識して意図的にそう描いている場合もあるだろうが、
「女とつきあった経験がない(浅い)」
「ゆえに、女のイメージや像が非常にスカスカである」
「すると、そこには巨乳やロリが一番強い要素として全面に出てくる」
ということになる。
なので前回月曜日のたわわで私がフェミニスト批判のような形で感情的に書いたのは、
「そもそもこれらオタクがある意味恋愛弱者」であり、
恋愛弱者の最後の逃避の場所としてのフィクションをつつく・・・
というのが倫理的にあまりにもあまりじゃないか、
そして、彼らが最後によって立つところの歪んだ異性像である「物質化」された「巨乳ちゃん」というのが、
彼らが「最強の人」になることをギリギリで止めるもの「たり得るのならば」、彼らをむしろ容認する方が社会にとっては善ではないか・・・という見方を私個人はしているからである。
この「弱者」としての「オタク」の居場所をどう確保するか・・・その「居場所」としての「巨乳」なのではないか・・・・
まあ私個人はそういう「リアリティの欠如した」「女性」像は二次元でも大嫌いで、「コンテンツ」とか「キャラクター」ってもっと「リアル」の人間の内面を描くべきではないか・・・
とは思うが、元来男というのは(特にもてない男)というのは「共感」が欠如した傾向がつよく、まあそれも仕方ないよね・・・とは思う。
まとめると、
「巨乳」が二次元で多く見られるのはそれを描いてる主体の「性的なコンプレクス」である・・・・
ということ、
また、ある意味ではその性的なコンプレクスが日本のサブカルチャーの一端をになってきたという言い方もできなくはないから、
まあ野放しでよくね?
とそういうことである。