Tuesday, June 14, 2022

小説家・菅野契 短編小説をKindleで発売開始!!!!


 え〜 この度、2017年より書き溜めておった自作小説をKindle出版しました!!!!


自分でちょっと読んでみたんですが、結構おもしろかったお(自小説自賛)


一部抜粋するお

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園田くん、現実


園田は抑うつ状態になっていた。彼は中小企業の派遣SEで、あまり賢い方ではなかった。


彼は生活の反復に疲れていた。都会は刺激にまみれている、と目を輝かせ上京。彼の目の前には素晴らしい充実と幸福、成功があるはずであった。


でもそれは違った。彼は人を怖れた。人の蔑むような目、見下したような表情、無言の圧力、憎悪、虚勢、ヘイト。義務や社会的責任という重圧により彼は彼を律した。


毎日夜遅くまで会社に残る。デスマーチで、リーダーは人殺しのような顔で園田を睨みつけ、怒鳴りつけた。


大人の社会にもスケープゴートが必要だ。


下に見て安心できる存在。ネット上の掲示板や動画サイトにはそれが溢れている。

都会は彼にとって薄暗い繰り返しに見えた。彼の目から光は消え、表情は苦悶と恐れに変わった。


このまま苦しみをループしながら年をとる。年を重ねるたび、身体機能は低下し、見た目は醜くなるため、心が尖っていく未来が園田には予想できる。


年をとると肉体の価値は下がっていく。価値を保つためには、社会的成功や地位を確立しなくてはいけない。水戸黄門の印籠のように、肩書きや地位を競い合う、ゼロサムゲーム。


SNSで成功を競い合い、リア充ぶりをアピールする、そんなゼロサムゲーム。


「俺は何だ」


園田は立ち尽くす。煩い電車の軋む音や右翼の軍歌が微かに響き渡る高架橋下、僕にとって幸福とは何か。


彼は今日職場を無断欠席したのだ。


頭がガンガンする。鉛玉のようなものが前頭葉に埋まった感覚、自分という存在が否定された瞬間。大人の社会で生きるということは、常にこの「お前はいらない」という強迫観念から逃げ続けるゲームだ。


この強迫観念から逃げるため、誰かから責められることから逃げるため、そのエネルギーは、もっと弱者にたむけられる。存在しているだけで肯定されたのは子供のときだけ。そこからは存在には対価を渡さなければならない。存在自体の肯定は何かを生産した(ないしそのように見せかけた)対価だ。


ネクラな園田は友達も少ない。親も早くに他界した。愛するべき人はいない。


園田には生きる意味がない。唯一の救いは仮想現実だった。夜の繁華街に消え、束の間の安堵をえる。酒を浴びることで、痛みを感じている心は一瞬でも和らぐ。人と関わることに希望が持てない。先細りの暗い洞窟。


そしていつかは死ぬ。死ぬという最終地点に向かって、それを思うと、おそらく今与えられている全ての悲しみはただの仮象であるのかもしれない。今生きているけど、死ぬというのはおそらくは、はじめの状態へ戻るということで、はじめの状態について僕たちは経験してきたんだ。


彼はこのように独白していた。


「つまり生きていない状態から生きている状態に、そして最後に元の状態に」


それは少し楽な発想だった。


野々村はこの園田の大学時代の数少ない友人であった。彼らは惰性のように会っては愚痴を言い合っていたが、野々村は園田に辟易していた。


園田の持つ負のオーラ。


ひとの持つ負のオーラはこっちにまで伝染する。例えば、救いようのないギャンブル依存の人間を更正させようと、救いの手を差し伸べたとして、こいつはその手の持ち主をしゃぶり尽くす。


園田と野々村は共通の知人を通じて知り合った。二人とも同じ宗教に入っていて、その点親近感とかもあった。


家庭訪問のノルマがあり、この二人は青年団として、よく足立区を回った仲だったから。


「だが俺は」


野々村は鬱屈の溜まったような際どい顔で園田を凝視する。


「お前みたいに暗いやつは嫌いだね」


鳥貴族でこのブサイクな二人は傷を慰めあうでもなく、そのようにつるんでいた。


「でももうやりきれないんだ。誰かに聞いて欲しいんだ」


「俺はボランティアじゃないから。そのちゃん。それにそういう哲学的な話も好きじゃない。一銭の特にもならない。」


「そのちゃんやっぱ暗いんだよ。そういうのが顔に出てる。蓄積。地層みたいなもんなんだよ。」


「そう、、、、かな、、、、」


野々村は野々村で、この園田という28歳童貞くんに説教し、優越感を感じ、主従関係を作ることで自分の快楽の道具にしているきらいもあった。



「でもやっぱりみんな最後は死ぬんだよね。」



そりゃそうだ、そうだけどそんなこと考えて生きてるやつってキモくね?お前キモいじゃん。

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(小説内より抜粋)


お・・・・おもろいやろ・・・・?


ネクラなやつには・・・ぴったりや!しかも100Pくらいある!!!!!

買ってちょんまげ・・・・とぽまへ〜

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「もはや昭和ではない」

もはや昭和ではない。

つまり若者の人口の層が熱い、イケイケな時代は終わった。

もはや昭和ではない。

高齢社会に突入した。

高齢社会の弊害は、高齢者が多いことではない。

高齢者の「意思決定」の重み付けが圧倒的に強くなることだ。

高齢者は、若者の利益を代表しない。

高齢者は多く、頑なである。

高齢者は多く、今回のロシアの例でわかるように、海外のプロパガンダやオレオレ詐欺に嵌りやすい。

つまり、人口減少の解決という観点から、

「高齢者」は国家の意思決定において「癌・ノイズ」である。

ヤングケアラー。まさに悲劇である。

もはや、民主主義は機能していない。

「高齢者」が民主主義のファクターとして居座っている以上、子供に投資なんか「できるわけがない」。

というわけで、「高齢者」を民主主義から間引きする必要がある。

自動車免許同様、一定の年齢を超えたら「民主主義のプロセスから弾き出す」か、

選挙の仕組みを変える必要がある。つまり

年齢層ごとに重み付けをかえる。例えば:

80歳の一票 (選挙人口の30%)  = 1×(1-0.3) ≒ 0.7票
65歳の一票(選挙人口の40%)  = 1×(1-0.4) ≒ 0.6票
30歳の一票(選挙人口の10%)  =  1×(1-0.1) + 0.1(少子化対策ポイント) ≒ 1.0票
20歳の一票(選挙人口の5%)    =  1×(1-0.05)+ 0.4(少子化対策ポイント) ≒ 1.35票

もう少し事理弁式能力でいえば「納税額」順に投票の係数がかわるのが明治時代だったと記憶しているが、そういうふうになにかしらの重み付けをしないと、

ポピュリズムが跋扈する

フェイスブックに溺れた老人の「右傾化」・「反ワクチン化」・「プーチン教信者化」・「オウム真理教化」が止まらない。

残念ながら、現行の民主主義はそういう意味で「破綻」している。

皮肉な話だが、中国共産党の方がはるかに「マシ」と言えるだろう。

若者に投資しない。

老人の票を得るために、財源が動く。

子供に投資しない。

そんな社会はディストピアだと思う。

そんなかんじで。(あくまで個人の意見です)

もちろん聡明な老人もたくさんいるが、やはり見る限りマイノリティ過ぎる。

配偶者控除の見直しも何度もなされているが、

こういうこと一つとっても、政治が「若者」を向いていないのが窺える。

どうなる日本。

(ちなみに、終末論的世界観が僕は結構嫌いで、そういうことを唱える人の多くは「終わってんのはお前だけだろ」と言いたくなるケースが大半である・・・・)

今回の記事はだいぶ偏ってはいると思うが、いわゆる世代間の「票の格差」による若年層の「無力感」・・・・そして、社会の意思決定が「老化」しないためにも、今のままだと日本社会にとってはイーロン・マスクが指摘しているような事態になるだろう。

前の原さんの「公益」ではないが、民主主義が「老人世代」が「次の世代に」どんどん負債をリレーしていく世界にするのではなく、もう少し「次の世代」に投資する政治になるべきだと思う。

日本を滅ぼすのは、下手に右傾化したフェイスブック廃人のジジイたちであって、日本を復興させるのは、明らかに「若者」である。

である以上、「若者」がもっと住みやすい水槽をつくることが、日本という国家を繁栄させるための使命である。

公益資本主義について

 いわゆる原丈二大先生の「公益資本主義」についてでございます。

まあ詳細は原先生の本を読んでいただくとして、個人的な(まじで個人的な)感想・・・ほぼ居酒屋の会話レベルの話として読んでほしいと思います(私自身の誤解などもあるやもしれんので)

公益資本主義は、いわゆる株クラ系のインフルエンサーやそのまわりの人たちからはだいぶDISられておりまして、例えば

「ただでさえ軽視されている日本の株主がさらに軽視され、日本株を買うインセンティブがなくなる」とか、

「海外の投資家がどんどん引き上げていく、日本はどんどん貧乏になる」

といったものが散見されます。

個人的にこういった意見に噛み付く気はないですし、まあそうでしょうな・・・とも思うのであります。

というのも私自身そこまで有識者ではないので、「かくあるべし」という観点からは日和見的なスタンスしかとれませんでげす。

ただ、原さん自身が事実デファクトの資本主義で相当な結果をだしている・・・そして手腕もある方でして、(詳細は本に譲りますが)

その中で、実際に米国市場とインタラクティブにやっていった結果見えていた風景みたいなものもあると思います。

で、事実この人の言っていることには周りの他のファクトとだいぶ噛み合う部分も確かに多い。

例えばバンク・オブ・アメリカの例(これはサンデルの本で例に挙げられましたが)で、会社自体は業績が下がっていて、ベイルアウト(つまり国が介入して救済した)状態にも関わらず役員の給与は「上がった」みたいな不条理があるわけでして、

原さんの指摘するところではROEを上げるために従業員を切り捨て、役員と株主に利益が吸われていく、そういうのはけしからんじゃないか・・・

ということだそうです。

また、四半期決算の廃止も、長期的な目で投資しなければならないジャンル(製薬・医療とか)で、短期で結果が出せないために社会的に本来重要な事業が「潰れる」(体力的に持たなくなる、株主に事業の廃止を迫られる)・・・

とか、まあアンチパターンは確かに(うーん)と思うところがあるのであります。

そして、現在の株主偏重の米国の資本主義はあかんのだと。

たしかに、水俣とか、ただただ神の見えざる手に委ねる結果企業の個々のエゴが・・・(または強迫観念が)粉飾決算とかも生み出したりもするし、とくに環境公害についてはSDGsにマッチするところもあります。

だから、「究極の自由」というのが結局「公益性」をかなり犠牲にしている、という視点で、これは無視できないでしょう。

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また、原さんのいう「医療特区」みたいなもの、そして難病患者を救うための社会的改善、なんかは心打たれるものがありました。

原さんがいうには「長期的に株をもっているほど税は下げるべき」ということも言っているので、公益資本主義のなかでこの「長期保有の恩恵」がわりと浸透していないのかも・・・とも思われました

結局原さんがいやなのは「短期的パルスとしての投機」「(かなりの部分を占める)AIの投資」などで、まあわからなくもないです。

投機をする人に重税を!だけど長期保有は減税ね、なら納得はいくです。

ただ、一点懸念点は、

今の自民党が原さんの意図を100%汲んでくれるかどうか、でござる。
これは、あるいみで「イデオロギー」とそれの「運用」の関係・・・すなわち僕ら人類の歴史上の「業」みたいなものでもありますが、

「原義はとても素晴らしいし理想郷なのに」
「人の手で運用された結果弊害になった」

という例で、枚挙に暇がありません。

「共産主義」などその最たる例でしょう。

「レーニン」の帝国主義も読んだことのないのに共産主義を叩いている人が頭が悪いように、(つまり一次情報をあたる習慣がない=バカ)

本来その「原義」というのは多くの人の心をうち、事実その「原義」が切実に必要とされる社会的背景があり、それを多くの人が信奉し、マジョリティ化するわけです。

でも、ご存知の通り共産主義は人々によって「恣意的に」利用され、結果

「全員が同じ考えを持つべき=違う考えのやつはけしからん=強制収容所・秘密警察だ!」となったわけです。

その悲劇の最もわかりやすい例が今のロシア(メディアガンガン規制)、北朝鮮なわけです。

ここ数ヶ月で、ロシアの化けの皮が剥がれたというか、まあ北朝鮮の親分だな・・・という印象でございます。

でも「原義」はよかった。

原さんの「公益資本主義」も、結局

「日本のもつ弊害の肯定」
「増税の加速」

みたいな、ただ中間層を窒息させるような政策を行う(行わざるを得ない)人の手にこのセオリーがわたると、

ただただ企業を窒息させ、投機家だけでなく投資家まで日本株から引き上げ、結果「日本の企業の力を削ぐ」ようになるのではないか、とも思います。

ただ、これは「公益資本主義」悪し、ではなく、

「公益」というものがふわっとしている以上、それをそのまんま今の制度とすげかえて「野に放てば」、なにもかも理想的な世界になるのかが疑問です。

今は、ただただ「増税」「社会保障費の増加」

になっているように見え、

老人のために若者が犠牲になっているようにも思え、
ある意味では不公平感がぬぐえない。

「公益」っていうのは、コンテクストによっては、ある意味では

「姨捨山」

も公益だったわけで、

まあ個人的に何を公益にするのかをはっきりさせたほうがいいと思いました

優秀な人や起業家が、日本で「やりずらいな」と感じて海外に逃げていけばそれは「公益」ではないし、

まあでもだからといって新自由主義的?な政策じゃあ結局格差はなくならんやんけ、的なこともあるでしょうし・・・

まあ難しい問題でございます

というより、公益の最たるものは「子供」ではないでしょうか。

「老人からお金を削り、」「子供に投資する」。

個人的には、これに尽きると思います。

外国人実習生度も、「公益」ではないと思います。

優秀な人材を「低賃金で抑える」のも、「公益」ではないと思います

公益の定義が、必要だと思います


以上!
(ただし個人のだらだら感想なので、あんまり本気にしないで〜〜〜)