Sunday, December 5, 2021

MV | あいだほのうた (御手洗あいか CV: 佐倉いの)


DAHO DAHO DAHO 

DAHO DAHO DAHO 

DAHO DAHO DAHO 

DAHO DAHO DAHO 


ふわふわ ほわほわ 踊ると のびるよ

みぎみて ひだりは みないとだ めだほよ

青い空 たべたいな

数学の 宿題忘れた だほ


ニコニコ いつもは

さすがに むりだほ

おすしは うに好き

だほだほ だほりみ

しっぱい ざせつは

いきてる おこるよ

いつでも なかよく

たのしく いくだほ


だほだほ だほだほだほ だほだほ だほだほ興業

だほだほ だほだほだほ だほだほ だほだほ建設

だほだほ だほだほだほ んだっほ だほよ

だほだほ だほだほだほ だ・ほ  Let’s Go

だほだほ だほだほだほ だほりみ だほ

だほだほ だほだほだほ ちょま~じ~ だほ

だほだほ だほだほだほ キョンシー だほ

だほだほ だほだほだほ おいこらダボ! だほ


DAHO DAHO DAHO 

DAHO DAHO DAHO 

DAHO DAHO DAHO 

DAHO DAHO DAHO 


おおきな くまさん おいかけ ているよ

にそくほ こうだよ あんまり こわくない

ツインテール 右左

長さ違う わけないだほ


ないだほ ないだほ

あいだほ しゅうだほ

せかいは あかるい

いきてる まだできる

じぶんを しんじて

だいじに するんだほ

くるしい ことでも

プラスに なるんだほ


だほだほ だほだほだほ だほだほ だほだほ興業

だほだほ だほだほだほ だほだほ だほだほ建設

だほだほ だほだほだほ んだっほ だほよ

だほだほ だほだほだほ だ・ほ  Let’s Go

だほだほ だほだほだほ だほりみ だほ

だほだほ だほだほだほ ちょま~じ~ だほ

だほだほ だほだほだほ キョンシー だほ

だほだほ だほだほだほ おいこらダボ! だほ

Thursday, December 2, 2021

結婚について

 某堀●●文氏が、自身のホリ●●ンチャンネルにて言及された

「結婚も時間制限のついた契約にしたほうがいい」

という発言について、個人的に思ったことを書こうと思う。

もちろん個人的に堀江氏はリスペクトしているし、この記事は人の発言を裁断して揶揄したり貶める意図(すなわち少なくない日本メディアの使ったり拡散する「発言」の定義ではない)ではなく、純粋に命題そのものに興味を持ったので個人の感想をシェアすることが目的である。

私個人としての反応は、

5割は言語道断だし、5割は正論である

である。

まず、5割言語道断だという点について、そもそもこれは堀江氏のもつ強いバイアスがかかっている。ご本人は離婚でのよくない経験が根底としてあり、だらだらと中途半端な相互不信が続くのであれば、いっそのこと契約にしてお互いがお互いを切りやすい(フリーランス化?)すればいいというふうに理解した。

ただ、これは結婚のもつ本来の意義には合致していない。結婚というのは、原義としては種族を増やしていくためのはじめの通過儀礼であり、

(1) 異性を愛し

(2) 子供を愛し

(3) 世代を継承していく

という重要な役割がある。これはどちらかというと人間の実存のもんだいであって、これに資本主義のノリ、株を売買したり損切りしたりするようなノリ、を持ち込むことは歪んでいると感じる。

結局、結婚をより相互的に(時間的に)疎結合にするならば、それは強い言い方を選べば、「売春」と変わらないのであって、時間と共に(市場原理として)無価値化していく自分が最後には世界から(意味としても)取り残されていくことを意味する。

(1) を疎結合にするということは、必然的に(2)も疎結合ということになる。つまり親子関係も市場原理の対象であり、親は子供をパフォーマンスで評価する。これは堀江氏が意図したこととは全く異なるが、ただ、(1)を疎にする場合の社会が必然的にもたらす方向は、(2)や(3)にも同様のスタンスが適応されることだと考える。

ただ、家族というのは「資本主義」とか「自由競争」とは確実に切り離されたDMZ(Demilitarized zone)であって、家族の中の時間は、パフォーマンスとか、コミットとかそういうものとは隔絶された時間であり、それが一番自然で正しい状態だと思う。つまり、厳しい評価や淘汰にさらされる競争社会とは別の、ゆったりした、家に帰ってこっそりとあけてほくそ笑む宝石箱のような、そういう空間が「家庭」の本来の(歴史的にみても)姿である。(そしてこれは内向きなので、外向きのトロフィー・ワイフとは一切相いれない)

この定義を逸脱したような時間で切り離されうる、お互いに緊張感をもたなくてはならないような男女間は、それはただの売春関係であって、女はつねに見た目が劣化してはいけないし、男はつねに経済的に落ち込んではいけない。それはお互いにとって「契約解除を意味するからである・・・」。それは条件付きの愛、メリットを提供する間継続される愛であり、それはもはや愛ではない。

なので、愛に失敗した人間にとってはきわめて理にかなった考えではあるけれど、大多数の人間はそんなものクソとしか思わんし、そんなの結婚じゃなくね?というのが感想である。

もちろん、愛に失敗することの繰り返しが人間の実存の本質でもあるので、それを揶揄する意味ではないが、しかし「結婚」という制度自体を陳腐化させて市場原理のおもちゃにする・・・というのはやはり違和感があるし、紀州のドンファンみたいな最後はちょっとやだな・・・・と

そして、病をもった配偶者や子供というのは、あまりにもコスパが悪いので、大切な家族のために自分の臓器を提供する・・・みたいな行為も、まったく意味不明なことになるだろう。

エゴと市場原理をつきつめた先にあるのは、もはや結婚でも家族でもない。それは「機能しない」家族である。(dysfunctional family)

ただ、これだけだとあまりにも不公平なので、

残り5割は正論だと思う。

というのは上記の記述はきわめて保守的な考え方であり、あまりにも一方的だからだ。

結婚のあるべき姿をかかげたとしても、近年の高い離婚率(や未婚率)は現実にそぐっていない、という見方が可能である。

日本では事実離婚率は、終戦後2倍近くにまで推移している

これは、この「結婚はこうあるべき!愛の形!じゃじゃーん!」的な理想像と現実との乖離を意味し、

一つは男女平等が進んだことと思われるが、それは逆に言えば

「これまでの結婚という制度のもとで、より女性が長期的に人権を抑圧されてきた」

ということを意味することでもある。

つまり、社会制度として結婚があり、男は男であるというだけで特権をもち、女性に忍耐を強いる構図であった。だから、そういう社会的な不平等とかよくないよね、

恋愛は自由市場よりもどちらかというと親が決める、的な(ないし例えばある発展途上国の農村部では人身売買など)・・・

男がいばりちらして女の忍耐に甘える・・・

そういうのではなく、男も「評価される側だよね」

というのは、かなり21世紀の現実に即しているというか、そういう意味では堀江さんの言っていることはかなり的を得ている・・・・

と思いました。

結論

個人的に、「有期期間の契約」に結婚がシフトするっていうことはないと思いますし、それは結婚でよくない思いをした人たちのもつ願望レベルの滑稽さを超えないと思いますが、女性が離婚しにくい・・・とか離婚してこどもいたら詰む・・・みたいなことを社会全体で解消して、より男が女性の忍耐に「甘えられなくなる」社会になることはいいことだと思うので、半分賛成、半分反対です。以上!

※この記事は個人の主観と偏見に基づくものであり、特定の価値観を押し付けるものではありません。

Saturday, November 27, 2021

【陰謀論】「バイトで生活費と学費を稼いだ」なぜ次々に怪しい風水や自己啓発などにハマる?親子関係を分断する危機をどう乗り越えるべき?|#アベプラ《...


この話題について、まあ他人事じゃ無いんで私個人の見解としては、
「うちの親がご迷惑かけて申し訳ありません」
としか言いようがない。90年代にオウムにのめり込んでいった人たちに外野から何を説明しても彼らを変えることは難しいし、彼らが変わるまではなるべく関わらない・・・ということしかできないんだと思う。
ほんとうにすんません。(そして今まで支えてくださり、ありがとうございました)
またいつか会える機会があれば、うれしいです
ぼくはみなさんのこと好きなんで。
まあ陰謀論にはまっても親は親なんで、そういう意味では家族愛みたいなもんはありますけど、
まあすごいことになってんなあ・・・・という所感で見ています
やっぱり資産形成早めにコミットしないと危ないなあ・・・・
(ただ、少しだけ言い訳させてもらうとフェイスブックの功罪は大きいかもしれません・・・・ネットリテラシーのない世代だと情報の取捨選択無茶苦茶になる挙句、そのめちゃくちゃな選択に則ってさらにバイアスを強化するようにサジェストされるのがSNS(機械学習)なので・・・・)
陰謀論にはまらなければ、いいところもいっぱいあるんだけどなあ・・・・(涙)
父ちゃんの書斎にある神学書とか洋書みたいなのこっそり読んで育ったからそういうの感謝してるし、
「契」ってのは結構センスあるネーミングだと思うんだよね
ほんとうに、
陰謀論にさえはまらなければ・・・・
成年コミック、エロ漫画、エロ小説 のダウンロードショップ - DLsite Books

露悪について

https://store.line.me/stickershop/product/15430293

「露悪」という単語は、おそらくは現代を語る上では重要なキーワードだと思っている。

というのは、おそらくはそれをもう少し精度を高く翻訳してあげると、「露出された悪」・・・もう少し踏み込めば「露出された悪への明確な拒絶」をコンテクストとした社会のことだからである。

現代はコンプライアンスの時代だ。

めちゃイケのようなコンテンツも今では作れなくなったし、テレビは視聴者からのクレームで尖った番組が作れなくなった。

90年代に通用していたようなブラックなコンテンツはもはやそれは通りに存在してはならないもの、排斥するべきもの・・・という風潮になって、それが当たり前になった。

この、「ちょっとした悪でも露出されることについて過剰な嫌悪感、拒絶反応をもつ」

という大衆心理は、まるでホームレスを排除した街のように、

綺麗な景観であり、それゆえに「無菌」であり、

「無菌とは脆弱さのことである」

という所感しか個人的には感じえない。

これは別に日本が・・・というよりも全世界的な動きのようにも見え、

「きれいなものしかみとめない」

という完璧主義・・・というか、

でもそれはある意味では人間の持つ実存とか本質から目を背ける、

「実際にそこにある人間の本質」を「恰も無いように」

きれいな「体裁」だけを繕う人間を量産する行為だ、ということ(まるで一部の女子中学生がこぞってアフリカの子供に手を差し伸べたい作文を書くように!!!!)

そして、それはもう少し踏み込めば

「弱いオスを量産する、ということ」

のような気がしていて個人的には首を傾げざるをえない。

もちろん、これはあくまでも僕の切り取った世界だから、本当の世界と完全にマッチする・・・などという倨傲はないけれど、

ただ、個人的にそう考えている。

バイ菌のない完璧な状態・・・・という先進国の到達した世界は、

例えば一昔前の、アタックナンバーワンで痛風を患ってしまう梢とは対蹠的なもので、

それはより抗体がすくない世界である。

抗体がすくない・・・ということは、ある日突然自分の目の前に現れた究極の状態、

それは、たとえば「ケネディの暗殺」なんかのような、

「俺」と「お前」の1:1の暴力なんかで、

もうどうしようもなくてひっくりかえってしまうような、

そういう個体を量産するってことで、これは国力の観点からもいいとはいえない。

日本は、特に日本はここについての物理的な・肉的な感覚を完全に喪失したような感じがある。

若い綺麗な女の子がいわゆるヤンチャな男に惚れるのは、

成年コミック、エロ漫画、エロ小説 のダウンロードショップ - DLsite Books

この、ぼくら文明社会の中間層の人間が完全に忘れてしまった「野生」の残香を、この不良の坊やたちに求めるからじゃないのか・・・という気がしている。

暴力とは本来(それは動物の世界では)単純で一直線なものである。

単純で一直線なものであるがゆえに、それは例えば人間関係の究極の状態であり、それは人間の実存の外すことのできない一つのピースである。

これを社会から完全に排除した。

動物を屠る過程に、もう僕らは参加しない。

コロナという大きな暴力は確かに僕らを蝕んだが、

それでも僕らのなかで「肉体」というのは僕らを離れたところに存在している、

その違和感、

すなわち人間がより自然と乖離した情報社会の中でぼくらは生きているということ。

「露悪」というのは人間のもつ「悪」をスケッチする行為であり、

そういう表現自体に嫌悪感を覚えるっていうのは動物としては脆弱なのかな、という感想というか、

じゃあ「きれいなものを身に纏ってにっこりほくそ笑んでいるような人間が自然淘汰で残るのか?」

とかいろいろな疑問が湧いてくる。

ちょっとロジックをだいぶはずした文章になってしまったが、

僕は日本語自体がだいぶ昔に比べて劣化したと思っていて、

この劣化した日本語(さらには古文や漢文すら義務教育に無駄だよね、と叫ばれる昨今)で、この言語の制約のなかで僕らはときに歴史から「寸断」される、

この経験というか、種としての時空からの孤立というものが

僕らの精神に負の影響を与えているのではないか・・・・とも思うのである。

日本語は確かに劣化した。

劣化した言語表現の制約の中で僕らが認識できる世界の範囲はあくまでも限られてくるから、

なので文学っていうのは、

ぼくらの言語の土台を守るというか、

メンテナンスする・・・・という大事な側面があり、

文学はそういう民族の根源的な土台てきな性質がある。

だから英語圏の人間にとってシェイクスピアは生命線だし、

僕らにとって源氏物語とかはそういう意味合いをもってるんじゃないか・・・・

僕ら日本人(という言い方にチープなナショナリズム的な意図はないんだけれども)のもつ自我とか、じぶんがどこからきて今どうあるべきか・・・

といった際・・・たとえば「どう戦うか」

という命題に対して

「五輪書」なんかがわりとしっかりとした答えを出している。

ただ、五輪書っていうのはようは今のコンテクストでいえば

「人殺し」の「人の殺し方・殺されないための心得」

であって、まあツイッターでリアル炎上しそうな世界の話であり、でも今の「コンプライアンス」とか「チープな100均で売れ残ったようなポジティブ」の言語的・思考的制約のなかでこの本を読んでもおそらくなにも感じられないというか、

不感症の性行為のようなもので全く意味がない・・・ということになりかねない。

だから、そういう「ちょっとしたネガを拾って引っかかる」みたいな現代日本人の心の病みたいなのは、

「男がメスになる」

以上の意味はないのであって、それは現代の病理である。

だから、

「生きるとか死ぬとか」

「殺す、殺される」

という人間が生まれもって逃げられない命題みたいなものについて何一つ考えていない、

何一つ答えをもっていない・・・

っていうのは、やべー状態だし、

そういうやべー状態というのは、まさに、

「自己肯定感」

と連携しているトピックであって、

僕らが舗装された道路だとか、「無菌状態のコンクリートジャングル」「嘘だらけの世界」から少しでも自由なら、

この「自己肯定感」という単語で切り出された自意識の病理みたいなものは、おそらくはないんじゃないか・・・・

とも思うわけです。

「文学」は無駄、

という実践的すぎるようなスタンスというのはやはり貧し「すぎる」のであって、

それはどちらかというと致命的な貧しさだと思います。

人間が人間であること、

とか、(偏屈なナショナリスト的な意味ではなく)自分がアジア人であること、日本人であること(三島由紀夫的に言えばショーウィンドーに映った自分の姿が紛れもない黄色人種であること)

ということについての自意識・・・・的なところがないってことは、

すっからかんということなので、

「露悪」という単語の濫用は個人的にあまり好かないというか、

現代人弱いな・・・などと思うのでありました(坂口安吾を読め!!!!!)


以上

そんなかんじで。


会社やってます↓

https://sugano.works/