少子化が嘆かれて久しい。ただ、よく立ち止まって考えると、この少子化という事象を多角的に捉える必要があるんではないか・・・と思うのである。
ドラマをみる。ネトフリで、熱血教師ものの4番煎じみたいなやつをみる。つまらない。つまらないというより、「何を言いたいか」全くわからない。そこにはメッセージ性がないし、「笑顔」というキーワードをお題目にする教師がいて、ペラペラで中身がない。
ネガティブな表現だが、実際にネガティブなのである。実際に起っているのは非常にネガティブなことなのである。この脚本には「価値観」が一切存在しない。空洞。空洞な人間が書いた脚本。空洞なキャラクター。そういう企画が稟議を通っちゃう。
もちろん何かを言えば怒られるのが常で、こういう記事がクソコメの砲撃を喰らわないのは僕の知名度の低さがプラスに働いているわけだけど、でもやはりこの「空洞」な感じに違和感がある。
もちろん、いいものを作る人はいる。いいものは面白い。でも空洞なものが淘汰されないのは時代を反映している。
空洞なコンテンツが消費されるのは「空洞な消費者」を前提としているからである。
考えない時代。
思想なき時代。
それはおそらくオウム時代から起こっていて、まず空洞はインテリに起こった。「空虚さ」。その空虚さを埋めるのは「だれかが自分が何を考えるか決めてくれること」だった。
Eichmann In Jerusalem っていうハンナ・アレントの著作がある。これは彼女がナチスドイツのかつてのアウシュビッツの将校?で実際に虐殺に加担したとされる男の公判の所感を記した記録である(僕の記憶が正しければ)
そこで印象的だったのはこの「アイヒマン」が「空っぽ」ということだった。つまり「空っぽ」なのだ。勤勉であるドイツ人の象徴であるような彼が、「システム」の一部としての「虐殺」に加担した。ただ、それはまるで自動車工場の期間工が黙々と作業をするように・・・・ただ純粋に組織の指示に従ったまで・・・という所感ということだった。
ゾッとするのが、アイヒマンが同期のナチスのメンバーに比してそこまでユダヤ人ヘイト(アンチセミティズム)がなかったことだ。彼自身、ユダヤ人との交流や理解があった。
アイヒマンはユダヤ人の一部を「逃がす」ということもしていて、「逃がすこと」と「虐殺」というある種の矛盾する行為を行っていることも印象的である。
そして、おそらく太平洋戦争のときに「やれー、やれー」と軍国主義一択だった人たちが、敗戦後手のひらを返すように左傾化したことも、なんかこれに近い気がしていて・・・
つまり・・・一部の主導的な思想家とかカリスマは別として(吉本隆明とか)、彼らの学生運動は「思想」を「着た」のだ、
そして「思想」は「ファッション」としてあるあいだはやはりそれは「空洞な」人間であって、
その「空洞」が「カルト化」する脆さなんだ。
で、改めて少子化ってなんだろうと考える。
みんなが未来に希望がもてないっていう感覚だともとれる。
「ドグマ」の弊害は大きいにしても、戦後の日本は、その全体主義のトラウマから(つまり絶対だと思われていた唯一的価値観の敗戦による崩壊により)、空中分解をした、
空中分解をしたら、もう拠って断つところの思想的なバックボーンがない。
思想とはまず自分で自律的にものを考えることで、
自律的にものを考えるということは実存と向き合うということだ、
だから、その実存のなかにはいろいろな嫌な経験・・・・そして昔の世代だとそれがちょうど「戦争」だったんだと思う。
「戦争」の悲惨な経験、
ごはんが食べられないひもじい経験、
自分の大切な人が死ぬ経験・・・・
こういった逃げることのできない経験から、「思想」が育まれた。
今、その「逃げることのできない経験」がない。
「ブランク」だ。
そしてAIなんかが登場し、人はもっともっとバーチャルになり、抽象的になり・・・自然から乖離していく。
活字がどんどん減ってくる。
容易に消費できるメディア(倍速動画・ショート動画)が主力となる、そしてそういうふうに「脳」が再構築されていく・・・・
いわゆる経済的に成功したインフルエンサーの中にも、
結局ものすごく醜い・自己中心的な・末期的な世界観を強く持つ人がメディアにたくさん出てきたりする・・・・
これは資本主義的なものの象徴であるようにも見えるが、
「俺、俺、俺」
で共同体よりも個人よりである。でも、その個人も他人を押しのけ、他人の話に薄ら笑いで応じ・・・といった人格、モラル、人間性である(たといその他人の話がある程度ナンセンスだったとしても・・・一応ゲストだろ・・・)。
ただし、ここで我が国における個人とモラルの関係は、まずは
「定言命法的な性質のもの」
「相互監視に由来するもの」
である、そして1は疑うべからざるこれ以上分割できない「かくあるべし」の単位である、これを古代から社会は宗教という形で規定してきたのだと思われる、そして2は島国(すなわち地理的な限界を持った社会環境)が生み出した様式である。
今我々が市井で(この言葉が便利なので使うが)みているのは「定言命法の崩壊」である。子供に注意するときは「だめだからだめだ!」ではなく「危ないから〜しようね・・・」という一方的な教師信号から「説得・説明」に移行した。
だが本来1であれば人格形成期は問答無用のほうが子供にとっては有益なのでは?と個人的には思う。
そして2相互監視だ。つまり「自分が他者からどういう絵面で見られるか」というメタ認知だ。
だから、前の記事でも述べたように「笑顔」に拘泥する。
「笑顔」しかない。
「内面がない」。
アイヒマンとおなじである。
そうするとそこには「人の幸福はなにか」を個人として・・・・言語を駆使して考えるような葦は存在せず、そこには「みんなで笑顔をつづけること」が重要になる。
過度な一般化はしない。内面のある人も内面の深い人も一定数いる。
でも大衆に許容されているドラマなどでこの「笑顔」という・・・・「笑顔」というたった一枚のドリフのセットのようなパネルしかない人格・内面性の傾向について・・・これを憂慮せざるをえない。
なぜなら、思想なき・・・人格なき時代というのは、
とうぜん政治も腐敗するからである。
そして内面なき人々は、当然「新興宗教」の餌食になるのである。
そこには空疎な穴しかないから。
人間の数が少なくても、個々人の質やパワーが担保されれば希望はある。
今若い世代が絶望を感じているのは、経済的な面に加え、この「価値なき時代」「モラルなき時代」の空気が大きいのではないだろうか
※これは個人の意見であり、絶対を保証するものではありません。
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