Monday, November 28, 2022

新約聖書ASMR | ペテロの第二の手紙 | 第2章

少子化を嘆く前に

 少子化が嘆かれて久しい。ただ、よく立ち止まって考えると、この少子化という事象を多角的に捉える必要があるんではないか・・・と思うのである。

ドラマをみる。ネトフリで、熱血教師ものの4番煎じみたいなやつをみる。つまらない。つまらないというより、「何を言いたいか」全くわからない。そこにはメッセージ性がないし、「笑顔」というキーワードをお題目にする教師がいて、ペラペラで中身がない。

ネガティブな表現だが、実際にネガティブなのである。実際に起っているのは非常にネガティブなことなのである。この脚本には「価値観」が一切存在しない。空洞。空洞な人間が書いた脚本。空洞なキャラクター。そういう企画が稟議を通っちゃう。

もちろん何かを言えば怒られるのが常で、こういう記事がクソコメの砲撃を喰らわないのは僕の知名度の低さがプラスに働いているわけだけど、でもやはりこの「空洞」な感じに違和感がある。

もちろん、いいものを作る人はいる。いいものは面白い。でも空洞なものが淘汰されないのは時代を反映している。

空洞なコンテンツが消費されるのは「空洞な消費者」を前提としているからである。

考えない時代。

思想なき時代。

それはおそらくオウム時代から起こっていて、まず空洞はインテリに起こった。「空虚さ」。その空虚さを埋めるのは「だれかが自分が何を考えるか決めてくれること」だった。

Eichmann In Jerusalem っていうハンナ・アレントの著作がある。これは彼女がナチスドイツのかつてのアウシュビッツの将校?で実際に虐殺に加担したとされる男の公判の所感を記した記録である(僕の記憶が正しければ)

そこで印象的だったのはこの「アイヒマン」が「空っぽ」ということだった。つまり「空っぽ」なのだ。勤勉であるドイツ人の象徴であるような彼が、「システム」の一部としての「虐殺」に加担した。ただ、それはまるで自動車工場の期間工が黙々と作業をするように・・・・ただ純粋に組織の指示に従ったまで・・・という所感ということだった。

ゾッとするのが、アイヒマンが同期のナチスのメンバーに比してそこまでユダヤ人ヘイト(アンチセミティズム)がなかったことだ。彼自身、ユダヤ人との交流や理解があった。

アイヒマンはユダヤ人の一部を「逃がす」ということもしていて、「逃がすこと」と「虐殺」というある種の矛盾する行為を行っていることも印象的である。

そして、おそらく太平洋戦争のときに「やれー、やれー」と軍国主義一択だった人たちが、敗戦後手のひらを返すように左傾化したことも、なんかこれに近い気がしていて・・・

つまり・・・一部の主導的な思想家とかカリスマは別として(吉本隆明とか)、彼らの学生運動は「思想」を「着た」のだ、

そして「思想」は「ファッション」としてあるあいだはやはりそれは「空洞な」人間であって、

その「空洞」が「カルト化」する脆さなんだ。

で、改めて少子化ってなんだろうと考える。

みんなが未来に希望がもてないっていう感覚だともとれる。

「ドグマ」の弊害は大きいにしても、戦後の日本は、その全体主義のトラウマから(つまり絶対だと思われていた唯一的価値観の敗戦による崩壊により)、空中分解をした、

空中分解をしたら、もう拠って断つところの思想的なバックボーンがない。

思想とはまず自分で自律的にものを考えることで、

自律的にものを考えるということは実存と向き合うということだ、

だから、その実存のなかにはいろいろな嫌な経験・・・・そして昔の世代だとそれがちょうど「戦争」だったんだと思う。

「戦争」の悲惨な経験、

ごはんが食べられないひもじい経験、

自分の大切な人が死ぬ経験・・・・

こういった逃げることのできない経験から、「思想」が育まれた。

今、その「逃げることのできない経験」がない。

「ブランク」だ。

そしてAIなんかが登場し、人はもっともっとバーチャルになり、抽象的になり・・・自然から乖離していく。

活字がどんどん減ってくる。

容易に消費できるメディア(倍速動画・ショート動画)が主力となる、そしてそういうふうに「脳」が再構築されていく・・・・

いわゆる経済的に成功したインフルエンサーの中にも、

結局ものすごく醜い・自己中心的な・末期的な世界観を強く持つ人がメディアにたくさん出てきたりする・・・・

これは資本主義的なものの象徴であるようにも見えるが、

「俺、俺、俺」

で共同体よりも個人よりである。でも、その個人も他人を押しのけ、他人の話に薄ら笑いで応じ・・・といった人格、モラル、人間性である(たといその他人の話がある程度ナンセンスだったとしても・・・一応ゲストだろ・・・)。

ただし、ここで我が国における個人とモラルの関係は、まずは

  1. 「定言命法的な性質のもの」

  2. 「相互監視に由来するもの」

である、そして1は疑うべからざるこれ以上分割できない「かくあるべし」の単位である、これを古代から社会は宗教という形で規定してきたのだと思われる、そして2は島国(すなわち地理的な限界を持った社会環境)が生み出した様式である。

今我々が市井で(この言葉が便利なので使うが)みているのは「定言命法の崩壊」である。子供に注意するときは「だめだからだめだ!」ではなく「危ないから〜しようね・・・」という一方的な教師信号から「説得・説明」に移行した。

だが本来1であれば人格形成期は問答無用のほうが子供にとっては有益なのでは?と個人的には思う。

そして2相互監視だ。つまり「自分が他者からどういう絵面で見られるか」というメタ認知だ。

だから、前の記事でも述べたように「笑顔」に拘泥する。

「笑顔」しかない。

「内面がない」。

アイヒマンとおなじである。

そうするとそこには「人の幸福はなにか」を個人として・・・・言語を駆使して考えるような葦は存在せず、そこには「みんなで笑顔をつづけること」が重要になる。

過度な一般化はしない。内面のある人も内面の深い人も一定数いる。

でも大衆に許容されているドラマなどでこの「笑顔」という・・・・「笑顔」というたった一枚のドリフのセットのようなパネルしかない人格・内面性の傾向について・・・これを憂慮せざるをえない。

なぜなら、思想なき・・・人格なき時代というのは、

とうぜん政治も腐敗するからである。

そして内面なき人々は、当然「新興宗教」の餌食になるのである。

そこには空疎な穴しかないから。

人間の数が少なくても、個々人の質やパワーが担保されれば希望はある。

今若い世代が絶望を感じているのは、経済的な面に加え、この「価値なき時代」「モラルなき時代」の空気が大きいのではないだろうか

※これは個人の意見であり、絶対を保証するものではありません。


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Sunday, November 27, 2022

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笑顔と涙について

 僕個人がかなり歪曲した人間だから・・・かもしれないが、日本において人口に膾炙している「笑顔」と「涙」について、僕はかなり「まずいな」と思って見ている。

このそれぞれの単語や概念に問題意識を持っているわけではなくて、「日本人の」・・・もう少し過度な一般化を外せば「日本の市井の」もつ「精神的な成熟度」の限界、つまり「人間理解」とか「思想」の限界がこの「笑顔」であり「涙」であるからだ。

もう少しわかりやすくいうと、個々人のもつ「人間理解」の最小単位が「目に見える表層的なもの」であって、つまり「様式(フォルム)」だということだ。

だから「笑顔」や「涙」や「感動」が人間理解の基底部分の限界になっていて、これは「浅い深い」でいうと「浅い」というのが現実だと思う。

つまり日本の市井には地に足のついた哲学がない。

つまり日本の市井には成熟した「内面性」がないし、あっても子供の落書きのように未成熟である。

「いい人」というのもそのカテゴリに入ると思う。

ただ、じゃあ日本人そのものの内面性をDISっているのか・・・というとそうではなくて、

日本文学はそのことの容易い反証になりうる

つまり日本文学というのは、すなわち我が国の国語で記された「つきつめられた内面」をある程度テーマにしたメディアにおいては「内面」は存在しうる、

でも、いま僕らが消費しているコンテンツ含め・・・戦争直後の痛み・・・などが薄れたこともあるけれども、個人の内面というのは非常に底浅で、それが「涙」「笑顔」という、人間の実存について

「絵面」

を重視し絵面におわる、そういう悪い意味での日本人らしさに終始しているように思われる。

でも、本当に重要なのは「涙、涙」ではなくて個人が「悲しい」ということだし、また、重要なのは「笑顔、笑顔」でなくて個人が「幸福」であるか・・・ということである。

この「悲しさ」「幸せ」という単語の抽象度は高く、要求される「考える」ことの総量も増えるから、「涙」「笑顔」という解像度で止まるほうがきっと楽だ。そうして「絵面」で始まり「絵面」で終わる内面性が量産される。

ただ、こうやってしゃべっていくとあまりにも日本文明に対して意地悪だし、ぼくはあくまでも市井で起こっている「内面の劣化」について憂いているわけであって、

三島由紀夫がかつて文化防衛論で述べていたみたいに、

「フォルム(様式)」そのものに日本人の哲学(内面性)があるんだ

というのは非常にわかりやすくて、だから

「武道」なんかは非常にわかりやすい日本のもつ内面性の財産であろう・・・

などとも思われる。

そして、内面性というのは自己に関係づけられた実存的なリアルにしか結びつかない、

それはより自然と密接になっていないといけなくて、それが西欧のように「自然を支配し加工するにしろ」、東洋のように「自然を崇拝し共生するにしろ」、

それはどちらにしろ自然や肉体とつながっていないといけない。

今の日本の市井はいわば「無菌」であり、

それは「死」や「暴力」といった現実にいっさい近づかない、

膝すらすりむかない、

そういう抽象度の高い社会で「考える」ということを失う、

「考える」つまり「自我」の奥行きや幅を失う、

僕はその結果が「涙」であり「笑顔」の乱用だと思う。

非常に語彙力に貧しい。

人が文学を読まなくなった。

国語がやさしく、柔らかくなった。

村上春樹をDISるわけではないけれど、

やはり国語とか国語の総量や質に人「そのもの」が既定されるのに、

一方では、

書店はどんどん閉鎖し金太郎飴化も加速した。

ある意味では「プラクティカル」な情報は優先的にとられるようになったが、

「市井」から「教養」が薄れていった

よく有名人の「失言」や「しょうもないスキャンダル」が執拗に繰り返されるのも、皇族関係者への執拗なバッシングも、どちらかといえば「内面性の劣化」がもたらした産物ではいかと。劣化した需要に対して、劣化した供給があるんだろうな、と。

コンテクストや意味を「解釈・分解」できる体力がなければ、やはり「言霊」がすべての最小単位になる。でも言霊はただの部品であって「思考」の最小単位ではない。

でも、思考ができなければ、やはり「言霊」が前景に押し出てくる。だから「〇〇発言」、「〇〇発言」・・・こういった民意からよいコンテクストやストーリーが生まれることは難しいでしょう。

「教養」を背伸びする(団塊世代のような)、そういうスノビズムすらなくなった。インデクスすら、消えてしまった。

そういう時代に、やはり個々人が内面を進化させるのは重要で、

内面のない空虚な時代にぼくらは生きていて、

そういう内面の欠如の集大成が統一教会との癒着なんだと思うけど、

やっぱり日本このままだとやばいと思います。

ただこれはあくまでも僕の主観というか肌感でしかないですし、

冒頭に申したとおり僕自体もだいぶ偏屈で歪曲した人間ですから、

まあ話半分にってことで。

日本にもっと神保町が増えたほうがいい。


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