Monday, August 22, 2022

機械学習と、画家・イラストレーターはどう向き合うべきか?

 最近DALLE−2とかmid journeyとかが流行っており、

画家・イラストレーター・・・およびそもそもクリエーターそのものがAIに置き換わるのではないか?という議論が巷で飛び交っている。

そして、画家によるラッダイト運動が起こるんだと。

画家の感情的に・・・これは許せないのだと。

今回の記事は私・・・つまり無名のコバンザメがこの話題についてぎゃあぎゃあ言うだけのものなので、対して価値はないが、

今絵を描いている若い人たちや、これから絵を描こうとしていて不安なお友達に向けたメッセージである。

機械学習がとってかわるのは、アートだけではない。

まず、機械学習が代替しつつ有るのはアートだけじゃない。
まず、プログラマーの仕事自体もガンガン削っていて、それはどういうことかというと例えばゲームエンジンなんかがそれに当たるし、それまでめちゃくちゃハードコアな人たちしかできなかったゲーム開発を、わりと技術がうんこな人でもC#ちょっとやれば作れるようになった。
これはエンジン側が物理演算などをライブラリに格納してくれたから・・・いろいろな面倒なたいへんな膨大な演算をぜんぶ肩代わりしてくれたからだ。
音楽制作もそうである。ミキシングなどはiZotopeとかあるし、原則技術者がいなくてもできるようになった。
自動作曲システムでいうと、オルフェウス(https://www.orpheus-music.org/)などが例だろう。
で、今後この流れは加速していくだろう。今回いろんな人が「絵の民主化!」「絵のラッダイト運動」などと歓喜しているが、

「絵すらこうなんだから、おめーの仕事なんかもっといらねえだろうが」

という現実を無視しているか、まじでわかっていない(死角)なのか、それとも相当なドMか、FIRE大好きなのか・・・・

まあどちらにせよ自分の仕事がAIに置き換わることの方がはるかに「容易い」ということを無視しているように見受けられる。

つまり高度な職能が、アートのレベルまで置き換わるということは、CEOとかCレベルの職業自体の価値も下がっていく(そういうものが機械学習に落とし込まれる)ということで、もっと極端に言えばこうしてこの記事をよんでいるあなたや、もしくは女子小学生でも一流の経営者になることができる、ということである。これは一昔前ならば妄想であったが、今では近い未来の姿の様に思われる。

デザイナーも不要である。これは絵の置き換わりに準ずる。

だから、これから人間の知的活動のうち、高度なものも、低度なものも、いずれ機械に置き換わるということだ。これを、「絵だから」「絵師の感情」などというふうにどこかしら上かしら目線で手を叩く人々は、自分の首にも縄がかかっていることに無頓着・・・・という意味では滑稽ではある。

なぜ絵師だけいらなくなると、思っているのか?

いらないという意味では同類でしょ。

「絵師の感情」という言葉についての違和感

自分の絵や作品を「機械学習」という建前で剽窃されたときのアーティストのリアクションを「感情」、という貧相な言葉に押し込めてしまう、その教養の低さそのものが問題だと思っている。

だから、自分の大事な子供が外で不審者に連れ去られて、山の中で遺棄されて帰ってきた時の家族は「被害者感情」の一言で・・・・そういう貧しい、極めて左脳的で無教養な「ちっぽけな言葉の牢屋」に入れ込まれてしまう。

そういう「無感性」さ、「無教養さ」というもの・・・・そしてその風潮については長年疑問を持っていた。

技術にしてもそうである。我々の多くは誰かの作った、自分で話し得ない大量・かつ偉大な功績のうえにかなりな程度フリーライドしている、そのうえで

「俺はすごい!俺がこれを成した!俺は万能!」

という無教養かつ美しくない「倒錯した万能感」は、エンジニア界隈でちょくちょくそういう痛いやつは散見されるが、

そういう「底の浅さ」というものを見せられている様な気がしてならない。

自然物ではなく「誰かの作品」をインプットとして使ったのであればそれはどうトークナイズしようが、どんな重み付けをしようが、それは多かれ少なかれ「盗作」とか「高度なコピペ」であって、

さらにそれを「恰も自分がなしえたこと」「恰も自分に帰属しているか」のように振る舞うのであればそれは「剽窃」である。

人間が誰かの作品を自分の手でなぞるとき、つまり模倣する時、それは人間自身が「考え」「感じる」ということとセットになっている。

であるから、機械学習だけを「剽窃」と揶揄することはもちろんフェアではないけれども(人間社会でも剽窃は溢れているので)、それでも、機械学習ができることはピクセルデータの域を得ない。それは、どんな綺麗事をならべようとも所詮は「機械の合成」でしかない。

「文化」についての錯覚

機械学習信仰と絵について、個人的にものすごく持っている違和感は、「剽窃」であったとしても「人間」がそれを「自らの手」と「感性」を通して模倣したときに、それは文化となるということである。

ここが機械と人間では決定的に違う。

アートにシンギュラリティを持ちこむ、ということは、アートをチンケなネットの情報空間の世界に閉じ込めてしまうということで、

そこには「自主的な重み付け」「ぼくらの文化」「ぼくらが感じたり考えること」

とは無関係である。

だから、別にシリコンバレーで作ったって日本で作ったって極端に言えば特に差分はない。

それは全部ネットに転がっているのだから。「どこどこの国どこどこの閉鎖空間だけの」絶対に外部に漏れない唯一無地のデータセットが存在しない。

つまり、

どんどん世界中のアートが均質的な、つまらない、金太郎飴になっていくということだ。

そういう「無感性」なセンスが、「機械学習がアートの世界を変える」という喜びと近似している気がしていて、個人的には違和感しかない。

人間のないところに社会は存在しない。

人間の介在しないところに文化は存在しない。

だから、「なんかそれっぽい上手い絵を作るbot・パクって合成するロボット」はできるかもしれないが、

そこに「文化」は存在しない。

言葉入力、ボタンポチ、で機械が絵を描いてくれる、

それは、

人間が人間の脳や知的活動をどんどん機械に明け渡していくということで、それは人間がどんどん退化するということで、

そうしてものづくりやアートといった(わりと無駄で有機的なバイアス)ところもそれに置き換わるんだ・・・といった傲慢さ、

そういうのはやはり美術館に行って絵をみて感動した体験がないような人たち特有のロジックや世界観なのかな・・・・と思ってしまいました。(パソコンの画像ばっかしかみてないんじゃないの・・・)


なので個人的にはあんまり好きになれないでふ。


今後アーティストはどうしていくべきか

アナログに回帰すべきか・・・と思います。それは漫画でも音楽でもイラストでもなんでもいいんですが、

アナログはいやでも「自然」を包含するので。

それはパターンとか合成とかそういう最近流行りの、そして最近世界を非常につまらなく、日本をより劣等にしうるそういうものではなくて、

例えば文化に求められているものは100円均一で買えるカーペットではなく老人のつくった匂いのする畳だったり、

中国の工場で大量生産したコップではなく、職人が丁寧につくった根付け・・・だったりする、

そして、そういう「泥臭さ」というのは、「誰かの開発した何か」にフリーライドして万能感によっている資本主義のなにか・・・といったコンテクストとは一切交わりませんから、

そういうところで地道にやっていくのがいいのかな・・・と思いました。

こういうところを意識せず、技術やアートを下にみる風潮は、東京の風景にも反映されています。

誤解された資本主義。誤解された技術。誤解されたアート。誤解された万能感。へんてこりんな新興宗教。

無感性(感じることの退化)。

無思想。

まあそんなかんじで。

「感情」という言葉を簡単に使うのはそれだけアーティストを「下に見たい」「滑稽なピエロとして自分の言葉に閉じ込めたい」というサディスティックかつ無教養な欲望が見え隠れする様におもえ、

この無教養な感じは今の日本語そのものがそうなのではありますが、

やはり「復古」「アナログ回帰」というところをもう一度みんなで見直すべきかと思いました。

もちろんデジタルとも上手に付き合う必要はあるのですが、

テック企業の剽窃としてのピクセルデータとしての使われ方をする・・・というリスクも孕んでいるので。


効率ばっかり追うと人間ってものすごく貧しくなっていくので、

非効率・無駄なところこそが「人間」である・・・・

という・・・そして、感じる・考えるというところまで外部化したら、

あなたの存在そのものが不要ですよっと・・・


まあ、そんなかんじです

これはあくまでも私という無名の小判鮫が書き散らした駄文なので、まああまり気にしないでください

いじょう


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