この話題について、まあおそらくこれは「予言」的なものになると思います。
まあこの「予言」というパワーワードが、厨二病のイキリ芸にどんどん使われていってしまった例もかなり散見しているので、まあそういうのと区別をさせるのはなかなか難しいのですが、個人的な経験則から・・・
まず、21世紀(2000年以降)我々はかなりハイスピードでのテクノロジーの変化、また、それに付随した我々の社会(法律含む)そのものの変化やパラダイムの変化を経験してきました。
ニコニコ日記タグからYouTubeへ
まず、2008年ごろからかなりしばらくの間、「ネットで顔出しは社会的死」という「常識」がかなり日本社会に根強くありました。
しかし、ヒカキンを皮切りにYouTuberというのがデファクト・スタンダードになり、またSNS(フェイスブック・ツイッター・インスタグラム)などでも個人がビジネスと絡めたブランディングで自身の顔写真を嬉々として公開するのが当たり前になりました。
でも、2008年にそれはほぼ犯罪者のような扱いを受ける行為だったわけです。
僕はニコニコの「日記タグ」から当時ははじめていて、当時は日記タグなんかに日記動画を投稿していたらもうそれだけで表を歩けないんじゃみたいな空気だったわけです。当時の流れからYouTuberとして成功したメンツとしては、(今はもう罪で捕まってしまいましたが)ワタナベマホト(旧サシマン)、ヒカキン、また、ピアキャス経由ですがシバターなどがいます。
ネットラップからメジャーのラップへ
同様の系列でニコラップというラップのコミュニティがありました。ここの主要メンバーはMC壁くんの主催するあはんれいでぃおという今で言うclubhouseのようなコミュニティで集まって馴れ合ったりしており、スカイプ/mixiで(あんまり有名人の虎の意をかることはしたくないですが、事実として)jinmenusagi(旧人面兎・ジメサギ)くんや野崎りこん(旧前頭葉)、banken(MC番犬)、電波少女のハシシくんなどとは絡みがありました。とくに人面兎くんは誕生日にスカイプで祝ってくれるやさしい人で、ミクシイ時代でも僕が彼のイラストを描いたら喜んでくれたりしました。(ツーフェイスくんには悪いことをしたと思っています、当時僕はがっちがちのアスペだったんで、彼のことは嫌いではありません)
つまり、何が言いたいかと言うとこの時代、ネットラップ(ネットでシコシコやってる痛いやつら)という認識が世間的には強かったが、この過渡期をえていわゆるオタクのラッパーたちは現場(実際のイベントなど)に足を運び、メジャーデビューとか出世していった、結果としてジャンル自体が市民権を得た、ということです。ちなみに私は雑魚だったので一切出世できませんでした。笑
また、同時期にオタクそのものについても、「気持ち悪いやつら」から「一般人」へと昇格していった・世間的なパラダイムが変わっていったことも忘れてはいけません。かつての「オタク」的な揶揄は「インキャ・チー牛」という形で継承されていきますが。
リモートワークへの認識も変わった
リモートワークについても然りです。多くの企業ではリモートワークなど言語道断・非常識・甘え・不可能という認識だったと思います。
僕はかつてタイの外資で週3回のリモートワークの制度を経験しており(そもそもタイなどではインフラが先進国ほどしっかりしておらず、また雨など降ると実質出社が困難になるなどザラなので)そういう制度を当たり前、として認識していました。
なのでその後零細企業やスタートアップにリモートワークを持ち込みましたが、なかなか受け入れてもらえなかったり、スタートアップの方はCEOが有能な人だったので受け入れてもらえることになりましたが、スライドをつくって長いプレゼンをしなくてはならなかったり、いちいち制度に組み込むためにいろいろ作業をしました。(いい思い出です)
で、コロナです。
だから個人的には結構時代の先にいつも幸か不幸か片足つっこめている・・・と思っています。
こういう時代の先を一歩読むのは、横並びが絶対でちょっとでもずれると袋叩きに合うようなカルチャーだと無理です。(鼻で笑われて犯罪者確定がオチ)
さて、ここからが本題です
SNSが「社会的信用」だ、は詭弁
僕個人の捉え方として、この「SNSが社会的信用だからSNSでぽしゃるとお前は社会的に死ぬ」的なムードや考え方は、気持ち悪いな、と思っています。
これは先ほど紹介した「新しいものはクソなもの」というパラダイムから、「新しいものがデファクトになって」それを非難している奴らもふくめ全員がそこにジョインする、という流れの一つだから、と思うからです。
何が言いたいか?
ポイントは二つです:
1: SNSは個人の写像ではない、個人の活動を分割したポートフォリオである。
2: 社会は社会の数だけある、が加速される
の2点です。
SNSは個人の写像ではない、個人の活動を分割したポートフォリオである。
まず、すこし堀江さんの多動力と絡む部分もありますが、個人がメインのタスクと副業というふうな活動の分け方をする時代が今後メインになってくると思いますし、ここまでは予言でもなんでもなく人口に膾炙した予見された未来だと思っています。
そのうえで、SNSというアイコンはこの個人の活動を、もう少し本質的な言い方をすると個人の人格を分割した写像になります。
なので、用途に応じて、その分割されたバーチャルな人格が訴求したいターゲットに応じて、発信が変わっていくことを意味します。
個人が活動を複数に分割する時代。
個人がアバター(仮想人格)を複数に分割する時代。
これが今後のSNSのあり方になります。
なので、個人のサイバースペースを通じた社会的価値や評価数値というのは、ポートフォリオを分割したようになっていく、分散投資のようになっていく、ということです。
これはPaaSでOSまるっとよりも一部ラムダになったりdockerが流行ったりするながれと少しシンクロしているかもしれません。
なので、個人=SNSの1アイコンという常識はもう古いです。
私個人は「漫画家」「ミュージシャン」「エンジニア」の3つの人格をそれぞれ別アカウントで分割しています。どれか一つが沈んだところで、致命度はそこまで高くはありません。(単一ベットよりは)
社会は社会の数だけある、が加速される
一時期、大○昌平の例の人種差別的発言が炎上しました。なので、僕個人としても彼の発言は感情的に許せないということがあり、彼は社会的に死ぬものだと思っていたのです。
事実、彼は東京大学からも制裁をうけ(解雇となり)、彼のスポンサーからも切られ、散々な目にあった。
なぜ彼があのような発言をしたか、という背景はなんとなく理解できます。
人間の脳にはバイアスというかバグみたいなものがあり、
A: 特定の人物Xないし少数団X’となにかしらのきっかけで人間的なトラブルがある(彼女を奪われた、とか彼女であって振られた、みたいな痴情のもつれなど・・・)
B: すると、そのXやX'の所属する属性や集団(一番わかりやすいのは人種や国籍)に対して、こいつらはこういうやつなんだ、と思い込む・・・
という人間特有の脳のバグです。
これを矯正というかFixするためには自分の味方になってくれる、自分によくしてくれるXに所属する個体との接触が必要ですが、それがなかった場合多くのケース人はこの状態に陥ります。
で、結局大○昌平は今でも元気に、上手に、うまくやっている、というふうにみえます。
これは彼が「差別主義者層」「保守層」のコミュニティに訴求してそこでの社会的「信頼」を勝ち取ったからです。
これの意味することは、社会はどんどんセグメント化されていって、もうこの流れを止めるのは難しいんじゃないか、ということです。
だから、社会は社会の数だけあるし、
どんだけ自分が「こいつはキチガイだ、島流しにすべき、村八分にすべき」と思っても、
かれがよっぽど豚箱にぶち込まれることでもしない限りは彼を思い通りにすることはできない、ということです。
なので、炎上は確かに一つの方法ではありますが、それでも彼は彼が信頼を勝ち得る安楽の地を見つけることができるようになるでしょう。
また、この村八分のハックが「権力をかさに来たいじめ」「噂を流して相手を貶める」「人によって言うことを変える」といった女の子特有のいじめですが、
これも彼が横滑りでどっかに言ってしまえばそれで終わる話なので、個人と共同体との疎結合が今後どんどん加速することになるとおもいます。
いわゆるなんJの○○川涼○くんの件も、あれは2016?年あたりの炎上事件ですから、かれがリアルの世界でうけた苦痛は計り知れないとおもいますが、あれを契機に法整備もできてきているので、これもまた「炎上」というものが個人を社会から抹殺する手段として有効である・・・という時代の「終焉」になると思われます。
まとめ
結論として、インターネットの登場後社会のパラダイムや常識はものすごいスピードで変わっており、もとめられるのは「デファクトにしがみついて新しいものを否定する」のではなく「どんどん新しいものから学ぶ」スタンスであり、これがないと時代の先は読めない、と考えています。
そして、SNSと個人をアイデンティカルにするというパラダイムはもう半分オワコン化しており、今後は個人が複数の仮想人格をSNSにあてがう時代になると考えています。そのため、SNS=個人、とか、SNSでの発信=個人のモノリシックな信用値、という考え方に固執すると、時代についていけなくなると思います。(これはここ5年以内に加速すると思います)
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