Friday, June 23, 2017

記号論

記号によって何もかもが収束されている、把握される、というのは非常に偏った考え方である。

記号は、自然を描写、説明するために作られた道具である。パターン化は、例えば日常生活で人の顔をカテゴライズしたりとか、無数にある多様性を特定の分類に落とし込む、という情報処理の仕方を「こちら側」で行っている認識の過程である。

ここでカントデカルトの時に前提となっていた主観客観で考えてみる。

客観(Object)というのはそれ自体独立した総体である。これらを説明づけるために主観とか思考(reasoning) を行う。記号化とは、主観の方の物事である。

だから言葉それ自体のみで独立して世界が存在したり、数式それ自体のみでまた別に一つの世界があったりして、それで世界と一対一対応である、という認識になりがちだが、それは慎重さを欠いている。

クリエイトとか、それの成果物というのもそうで、「クリエイト」をしない側から見たものはただの結果のオブジェクトであって、それらを後出しジャンケンのようにカテゴライズの箱に入れていき、これは「記号」これは「記号」と言い出すきらいがある。また、よく「これからの時代は創作ではなくマッシュアップだ」みたいな言い方をするのも、「クリエイト」ではない側からの偏った考えの押し付けである、と個人的には思う。0からものはできないが、もののできる過程や結果を「新しいものを創る」ことのできない人口が客観的に定義したり予測したりすることはできない。それは絶対的な主観であると同時に絶対的な情報量であり、確信であり、世界に結果としてインパクトを与え影響を与える結果であり、歴史である。

記号論やそれに準ずる諸々の語り草は物自体(thing-in-itself)ではない。現在のものが全てであり、限界であり、そのフレームワークはもう大幅に変わらないなどということは、どの時代でも誰かが言っていたことだ。誰かが考えていることは他の誰かも同時に考えている、というような言いぐさも、その手の物事に疎い人特有の言い回しだ。そう言った人たちの「世界はもうこんな感じだぜ」感とは別に、新しいものはポッと生まれ、イノベーションとして世界を変えていく。

 漫画の記号論も的外れだと思う。手塚さんはそのアプローチだっただろうし、誰かの画風をそのまんまトレースするような人口は多いので、そういう類型にばかりフォーカスがいくが、そう言った人口や、またそれらをグループ化して「漫画、絵は記号にすぎない」などという「わかった感」とか「意識高い感」などは完全にガン無視で、新しい絵柄や新しい技法は産声を上げていく。

 クリエイトとはそういうものである、と個人的には思う

記号論は世界を説明するための、とっても偏った道具の一つにすぎない

No comments:

Post a Comment