Friday, December 30, 2016

スーパーマーケットと教育

今日、スーパーマーケットで買い物をしていたら、お母さんと5歳くらいの小さい子供が後ろに並んでいた。

お母さんは子供に以下のような注意の仕方をしていた。

「そこに手をつかないの、手が挟まったらどうするの」
「何々しないほうがいいよ」

などなどだ。

一点、引っかかったことがある。

人格形成期の子供を、「納得させる」という行為は無意味だ。時には害になる、というのが僕の持論だ。

人格形成期の子供を育てる時に、絶対にしてはならないことがある。それは、

1) 善悪の基準を教える際、「なぜなら〜」と納得させようとすること。
2) 同じ目線に立って会話すること
3) 間違いを犯した時に罰を与えないこと
4) 親子の力関係において、主導権を取れない状態になること
5) 子供の人格を否定し、傷つける言動をすること(感情的に怒ること)
6) 子供に関心を持たないこと。

これは人格形成期に顕著に守らなくてはならず、少年、青年期と自我が確立するにしたがって少しずつこの縛りやタガを外していく、ということが必要である。

1) 善悪の基準を教える際に、子供を納得させようとしてはならない。納得させようと「Aしちゃダメでしょ、Bだからだよ」と注意した場合、子供はBだからAなのか、と思うが、お母さんが伝える時、だいたいこのBには「危ないから」「怪我をするから」といった自分がわの理由が入りがちになる。
これは頭の中にインプットするときに極めて無駄なプロセスだ。人格形成期の子供の頭に入れなければいけないのは、「Aするな」だけでいい。TrueFalseを叩き込むのが幼児期や人格形成期に一番やらなくてはならないことである。口頭言語で「Because」を付加するということを子供に対して行うことで考えられ得ることは、子供が無駄に相対的に考えることを覚えてしまい、秩序の中で行動できなくなる、ということだ。(相対的に考えるのは思春期、反抗期、青年期でよい)むしろ、子供にいうことを聞かせるのに、説得しなきゃいけないということは、親子関係において親の権威が確立されていないということに等しい。(ちなみに、僕はジョンロックの説を信じるので青年以降は親の権威はいらないと思っている)※なぜならを教えるのは後回しで良い

 2) 同じ目線になってはならない。1)と同様、インプットをする際、自分のいうことを聞かせられる人間関係が確立されているかどうか、がネックである。

3) 間違いを犯した時に罰を与えなければ、人格形成の中で、善悪の基準(人としての基礎的な行動基準、価値基準、倫理基準、遵法意識)をインプットすることを放棄していることになる。人格形成期、子供は自分に対して自分を罰する行為を行わない。善悪の基準ももちろんわからない。「口で説明する」という高度な方法で子供に善悪の基準を教えるのには無理がある。というか無理だ。

a) 火に触ったら、「熱い」。
b) お友達のものを盗ったら、「げんこつ」「ご飯抜き」になる。
c) 嘘をついたら、「怒られる(叱られる)」
d) 宿題をしなかったら、「廊下に立たされる」
e) 門限を過ぎたら、「怒られる」「ご飯抜き」になる。
....

こういった因果関係を格律(maxim)と呼ぶと、

 Bad Action -> Sanction

という経験の積み重ねにより、子供は何が「よくて」何が「悪いか」を埋め込まれていく。

これは人格を作っていくプロセスなので、とても重要なことだ。ここで与えられた格律の束を、その子供は一生抱えて生きていくことになる。束が全然なければ、社会の中で生きていくことが難しくなることも考えられる。とても重要だ。

4) 親子関係において主導権をとるということはとても大事だ。

特に人格形成期においては、教える側が立場的に、力的に上でないのに、子供に何かを教えることはできない。(子供は従わない)なので、主導権を取っていない場合、子供に「インプット」ができない。これは致命的になることがある。主導権をとる簡単な方法がある。それは 3)で述べた通り間違ったことをした場合には適正にわかりやすい(肉体に近ければ近いほど良い)罰を与えることであり、また、命令形を使うことだ。

「〇〇するな」
〇〇しなさい・しろ」

(これよりきつくなっても、マイルドになってもいけないと思う)

そして、子供がそれに従うまでそれを放置したり、黙認してはならない。
 
5) -6)は言わずもがななのでここでは割愛する。
 ただ、一点だけ述べるとすると、上記の「しつけ」が子供を傷つけてしまえば、それは虐待になる。特に父親は子供の恐怖の対象にならなければならない時期や場面があり、その際に、子供に加える暴力(げんこつとかお尻ぺんぺんとか)をどのように制御し、有効に教育に使うか、というところは意識しなくてはならないことだ。ただ、感情的に、等身大の憎悪を親からぶつけられた時、子供には一生消えない傷が残る。それはおそらくずっと忘れない。


また、教育機関においても体罰がタブーになってから久しいが、この習慣が奪ったものもまた大きいということも、議論しなくてはならない(僕は小学一年の時机ごと廊下に出された経験が....)


以上、所帯も持ってない人の空論といえばそれまでだが、今日の親子のやり取りを見ていて少し考えたことであった。


みなさん良いお年を

2017年も日本が平和でありますように

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